flower

誰かがいる、だから心配していない

2013.05.20 晴れ

[youtube:http://youtu.be/Ojx3wKPZaWY]

中山うり – 月とラクダの夢を見た でスタート。”雨に魔法をかけて”を貼りたいけどない(ノД`) 歌詞はステキすぎる。雨の日曜日、ヘビィロテでずっと聴いていた。

描いている人の跡をたどる。自身を喜ばす源泉。跡をたどる自体が狙いになったら本末転倒、あぶなっかしい。私もふれてみたいって感じて動いたら、そこから先は自身を楽しませてくれる時空が待っている。

性格は変わるだろうか? 知らない。基底をなす言動は変わるだろうか? 知らない。根底の思念は変わるだろうか? 知らない。私を含めた他者をみたとき、何も知らない。たぶん、「私」すら知らない。

ホールケーキを32等分したとき、私は他者を何等分知っているだろう。32分の1、32分の8、ひょっとして32分の0かもしれない。ずっと輪郭だけしか見ていなかった他者もいる。見た目はいちごのショートケーキでも味は酸っぱかったらどうしよう。

ホールケーキとして仕上がっている他者は、長い年月をかけて形作られ、長い年月のなかにはキッチンからはみ出た環境がレシピに影響を与えているだろう。土台は甘く、塗られた装飾は酸っぱく、のっかったイチゴは誰が食べても美味しいホールケーキを備えた他者はいるし、全部、辛いホールケーキの他者も想像に難くない。

32分の1を知っていたらコトはうまく運び、32分の16を知ったらコトが壊れていく。

長い月日をともにすれば32分の32を知るとは限らない。一瞬で32分の31を理解する出会いもある。残りの32分の1は絶対に踏み込んではならない領域であり、また踏み込まれたくもない密室。

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*FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

私の思念や行動様式を構成する要素を、私自身が把持できていなく、全体像も掴めていないとしたら、私は私の「果て」まで辿り着いていなくても日々を営んでいる。たぶん、それが健全であり正常なんだ。

主観の醍醐味。客観はない。私の主観と誰かの主観の知恵の輪を根気よく分解して、ばらばらになるまで解きほぐして互いに見せ合い、ゼロの視座まで到達するか、はじめから知恵の輪がないかのようにふるまうか。

身も蓋もない言い方をすれば、「関係」と「言葉」だけのなかへ身を投じて信用と信頼を捨象して営めるなら、十人十色の苦悩の総数は減少するだろう。

私の内側と誰かがみる私の外側の乖離。驚きは少なくなり、そういうものとして受け入れられるようになる。なったとき、内側の私は「ほんとう」か、が次に待っている。構えている。自分が勝手に乖離を認識したいだけかもしれない。己の理想像へ向かう欲望を自分が欲望している。

「万有引力とはひき合う孤独の力である」と書いた詩人と「孤独の最小単位は二人」と言った作家。心底ステキな表現だと思う。

まだ求める自分がいる。まだまだ遠い。