絵や写真は情報の質量が多く型を想像できる

2013.05.22 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=vhqNOGy2ax0]

Take Five – Dave Brubeck Quartet でスタート。ベッタベタですが、ウィスキーを飲みたくなります。毎晩飲んでます、モルト。毎晩、酔っ払ってます、モルト。毎晩、世界は琥珀色です、モルト。

先週の金曜日、午後、突然思い立って、ゴッホ展へ行ってきた。05/19(日)まで京都市立美術館で開催されていた。朝、タイムラインに流れてきたさえずりを目にして、思い出した。ゴッホ展をすっかり忘れていた。行こうか行くまいかほんのわずかに悩んだが、もうそういうことで悩む日常ではない。今度はいつ目にできるかわからない。いつまで”いる”のかわからない自身を頭の片隅に置いたわけだからほぼ即決に近かった。

森博嗣先生はブログで絵画について少し触れられている。

絵というものが生活にどれほど影響するのか、ということを知っている人は、きちんと絵を飾り、毎日必ず絵を見ます。例えは悪いかもしれませんが、小説300作分くらいに相当する影響量だと個人的に考えています。

絵画の価値: Construction in Waterloo

展示会場へ入室したら片っ端から絵を眺める。文字情報にはふれない。あとで図録を買うから必要ない。最初から最後までずんずん歩き、立ち止まり、また最初に戻る。会場を何度も往復。一枚の絵が最初から最後まで響いた。タイトルは『ヤマウズラの飛び立つ麦畑』。

講釈を書けるわけない。一言の感想、「飛んでいる!」と。悠々と飛んでいる。絵を前にして巡らす。何の鳥だろう? 何処だろう? いつだろう? 何を描こうとしたのだろう? 尽きない。

購入した図録に書いてある。「形式」だ。

Style above all -何よりも形式を

図録を読み理解が始まる。解釈はできない。解釈するための知識や情報を持っていない。読んで理解できるかどうか。徹底した「形式」の時期があった。そういえばその時期の絵は、私のイメージと異なった。「あぁ、こんな絵があるのかぁ」とだけ感じながら絵を往復した。その時期を経て、私のイメージの絵へ進化していく。

強烈。「自分が自分自身に」出会う。ここに何一つ難解な単語はない。生身の体と五感をふりしぼって描いた躍動が言葉に変換されたんだと受けとめている。先の言葉も同じ。難解な言葉はない。よしもとばななさんの小説にも同じ印象を持つ。

京都市立美術館

自分の「基準」を持っているから他者に適用する。絵や写真を眺めるときもそんな風に感じる。私は絵を知らない。基準を持っていない。写真については持っている。写真を眺めている時、自分の「基準」と比較している。意見を述べたくなる。技術情報を引き出す。そういった付随の「情報」に拘泥している。属性が気になる。写真そのものを楽しめていない

知れば知るほど、「見方」が拡張されて楽しめる。それも確かだと思う。あるライタの方は日本美術の解説をTwitterでさえずっていらっしゃる。膨大な知識を備えて観賞できたら楽しいだろうなぁと想像しながら読む。

だから、知っているか知らないか、や知識を持っているか持っていないか、ではない。型なんだ。身も蓋もない言い方をすれば、他者は他者、私は私という視座をまことに身体のレイヤまで落とし込んで獲得できるかどうか。いくら言葉や思念で理解していても、体がおいつていなければ、他者を制御したくなる気持ちを持ちつづける。それ自体は悪いわけないし、持ちたいという「型」もある。

森博嗣先生は、「こだわらないことにこだわっている」と時折書いていらっしゃる。それもひとつの型だと受けとめている。自分が営みを続けられるための型を整える。その型に必要な土台の「型」があり。その型は避けられない。避けてはいけない。過去から形作られた型の模倣からはじまる。型が分類される範疇によっては、基本といわれるし、また違う呼び方があるかもしれない。

絵や写真もひとつの他者とおけたとき、相手は変容しない固定の存在である。にもかかわらず、同じ写真を見つづける「自分」側が同じ感想を抱かない。たぶん、ここに「何か」が隠れている。その何かをずっと探している。