diary

自分からもっとも遠く離れた自己意識

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2013.06.02 薄曇り

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=J4zeiIOcZik]

サンタラ – バニラ でスタート。「冷えた苺もニュース速報も君の電話も何もいらないの」って詞、なんでこんな配列が思い浮かぶ? 素敵。歌詞を書いてメロディ、メロディのあとから歌詞、どちら? 目に浮かぶ風景、具体的な映像、でもどこか詩的世界が漂っている。

川上未映子さん出演のトーク番組を視聴。言葉の使い方を勉強。wikipediaによると永井均先生から影響を受けたとのこと。テーマは独我や自我について。

どのように学問されたか存じ上げない。哲学の一片を習得されていらっしゃる。だとしたら術語の臭さが会話に残留していそうなのに濾過されている。著作や対談やエッセイを手に取ったけど感じなかった。

今回の番組では、こてこての大阪弁でホスト的役割を担って場を仕切っていた。そこに臭さはない。ひょっこり口に出たフレーズが、語彙と思考の切れ味を映し出す。

書くという行為について。自分からもっとも遠く離れた自己意識に出合うこと、対話すること、だと。

字幕を読む。見なれない単語は「自己意識」。あとは日常で目にする単語。

「何か」についてほんとうに理解したしゃべり。身体の隅々に行き渡らせる理路を持っていたら、「何か」を語る言葉は平易になる。そう思う。

外部に存在する他者を自分の身体へインストール。沈黙のアップデートを繰り返す。翻訳。次にアウトプットされるとき、他者は「自分語」に変換される。自分の語彙の範疇で構成される自分の言いたいこと。

それが理解。身体と言葉の感覚が限りなく近づいているような状態。

大阪の桜

場の雰囲気を読み、場に合わせて扱う単語を変える。そんな感じではない。よほど器用な人でないかぎり、そんなことできない。

街のノイズに紛れ込んだ単語が会話を編む。どうしても置き換えられない術語が少々。言葉をほぐしながら会話と術語のミゾを埋める。会話と術語の狭間を、悶えて生み出した「自分語」が賄う。

映像の情報量は文章よりも勝る。あるテーマについて頭の中に浮かぶ映像や出来事を、「自分語」に翻訳して語る時、どうしても「それ以下」になる。運よければ映像と自分語が等しくなるぐらい。

何時間も独白するような状況だったら「それ以上」になるかもしれない。たぶん、万に一つもないだろう。

頭の中にある形と出力される表現はズレる。「それ以下」にしかならないもどかしさ。じれったい。語彙が足りない。不足を補える語彙を持っていない。そういったものを抱えることが、自分で考える根っこ。そのじれったさやもどかしさを脇へ置かずに書く。

「美しい日本語の組み合わせを提出するという意識が強い」と谷川俊太郎さんはおっしゃっていた。詩のメッセージは何? とよく聞かれるが、伝えたいことがはっきりしていれば散文で書く方が正確、とも。

詩をめくる。どうしても意味を欲しくなる。意味はなに? 詩の語と語と間にも意味は何かあるかもしれない。散文と異なる。読む人の数だけありそうな意味にも到達しない意味。

詩も散文も、「書く」という地点までは<私>と自分の共同作業なのかな。手元から離れてしまえば、意味のパズルは読み手の手元へ。自分が描いた「絵」とまったく違う絵のピースをはめられてもどうしようもないんだろうね。

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