たとえ相手が怒りの起点でも最後は自分への怒り

2013.06.03 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=x1oMPNya0cI]

ソウル・フラワー・ユニオン – 風の市 でスタート。高揚させてくれる音ってあるよなぁ。歌詞は切なくても音が軽やかだったり。反対に歌詞は顔を上げて見据えているのになぜだか音はやや抑え気味みたいなのも。音楽って不思議だ。

怒り、について考え続けている。怒りの根本や怒りの脳研究について一冊読んでみたくなる。主観を掘り下げられても何か足りない。

幾つもの怒りがある。状況によって怒りの濃度や種類は異なる。激怒、憤怒、立腹…. 漢字もいろいろ。ニュアンスを広げたら、嘆息や嗤笑にも怒りの匂い成分が入っていそう。

誰かが起点になって怒りを誘発したら、当初の怒りは相手にむけられたものだ。でも、私の場合、その怒りは直に収まり、どちらかというと自分に対する怒りが長く続く。

相手に頼ってしまったがゆえに、自分の描いていたとおりにならなかった腹立ち。もし、自分の想定しているイメージにコトを近づけたいなら、相手に頼るべき点をもっと絞らなければならない。自分がコントロールできたであろう範囲を自分がサボったから招いた結果に対して我に呆れている。

信用、という言葉は健康的なイメージを従えている。そういったイメージを払拭してシンプルに使うとしたら、相手を信用した自分に対する怒り。

皇子が丘公園

もう一つ気づいてほしいのは、自分の周囲の環境が悪いのは、これまでに自分が手を打ってこなかったからだ、ということ。だから、すぐに手を打っても、それが改善されるのは、ずっとさきのことになる。この種の挙動は、「社会」でも「他者」でも同様だし、もちろん「自分」についても当てはまることである。

“自分探しと楽しさについて (集英社新書)” 森 博嗣 P.140

再読。「自分」にも当てはまる。手を打ってこなかった。相手の成長(苦手、正直意味がわからない)へ関与したい欲求があったはず。欲求はやがて支配と通底する。

相手のふるまいが私の心象とずれる。心象にそぐわないふるまいを受ける。現実と心象のずれを知覚する。知覚は支配の基底に到達して怒りのボタンを押す。ずれをずれのまま処理する機能が発育されていない。なんのために先人の知識をインストールしているか、己の未熟を味わう。

幼すぎる自分。未熟。他者へ関わるのは他者の成長や進化に手をさしのべることではない。他者をそっくりそのまま他者として受け入れ、どこまで輪郭を広げても理解できない他者の有り様と向き合い自分の中でほぐしていくことだと思う。

自分の「色」に染めるような気持ちを微塵も持ってはならない。微塵はいずれ塊になり怒りの核に居座る。そうなれば私の進化を妨げる。