Drop

満足と無力の狭間

2013.06.06 薄曇り

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=l3OM0fG0jSE]

S.R.S – Sometimes (English Version with Lyrics) でスタート。日本語と英語バージョンがあって、英語のほうがお気に入り。切ない歌詞。想い歌う。男性と女性では世界の分け方が異なるのかしら。男性が男性を、女性が女性を歌わず、反転させた思いを書いたとき、ちぐはぐさが残る。女性が主人公の小説を男性が描くのと少し似ているような。ちぐはぐさが心地よく聞こえるときがある。

背中と腰の痛みが今月に入ってピークを迎え、ストレッチの効果も芳しくなく、座るも寝るも痛いのでままならなくなり、さすがにやや弱気になりかけているのを、どうにか踏ん張ろうとしている、いまココ、のような状態。

身体が思うように動かなくなる。それ自体は気持ちにダメージを与えない。動かなくなる身体に合わせられるように営めたら満たされる。やっぱり痛みだ。萎える。痛みの表現はたくさんある。漢字やオノマトペで表記できる痛みや言いようのない痛み。古来、「痛み」を悶々と考え続けた人もいた。

健康がいかなる様態か気にとめないとしても痛みは五感を奪う。痛みを五感を痛み自身に向かわせようとする。頭か身体か知らないが、とにかく痛みを知覚したまま、水に染み入る石のように浸透していく。やがて石よりもはるかに速く気持ちが割れる。

Drop
*RICOH GR DIGITAL II *28mm f/2.4

自分のひとりの営みが安定しているとき、無力を感じない。広辞苑には、「力の無いこと。勢力のないこと」と「貧困。また、貧乏になること」とある。ひとりで営みを賄えているからだ。ひとりで賄えるわけはないが、ひとりで賄えている錯覚が無力感を身体から消去している。

ところが、ことが起き、自分も何かしたくなったとき、無力はやってくる。そこではじめて自分には人と人をつなぎ合わせるハブをもたず、人と人の脈がない現実を理解する。

苛立ちの総量のうち2/3ぐらいは、自分の無力感が起点かもしれない。ひとりの営みが安定しているときにふれたくなかった人の脈が可視化されたとき、心が酷く乱れる。他方、自らすすんで扉を開かない、幼稚な自我への苛立ち。その苛立ちが転じて周囲へ向かう。

自分、だ。ずっとふれている。

世界を変えるのはたいへんだが自分を変えるのはかんたんだ、養老孟司先生はおっしゃっている。正確な引用ではない。うろ覚え。自分を変える、という点は気分を変えると受けとめてもよいかな。

そのとおり。朝、鏡に映る自分をみて笑い、早朝、窓を開けて青い空と強い陽射しを見てわくわくする。たぶんそれだけで気持ちはかろやかになるはず。

無力感を自覚しても虚無は引き寄せたくない。無力を自覚して、そのなかから自分にできることを確実にやっていく。自己満足から少し距離を置いた気持ちで。たまに自己満足をたぐり寄せ、次はまた無力感を自覚して、満足と無力の狭間を悶えてあえいで、小さなコトを確実に出力する。

誰か見ていると欲求しない。期待の源泉が枯れたとき、また動きが止まってしまう。満足と無力の繰り返して漸進していくしなやかさを身につけられたら自分を楽しめそう。