ズレを強制的に修正しない

2013.06.09 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=M6liO88pir4]

FreeTEMPO – Sky High でスタート。仕事中、FreeTEMPOをたびたび流す。柔らかい陽射しが部屋に闖入してきたらとりわけ流したくなる。聞き流したいのに、ちょっと気持ちがほどけるから音へ引き寄せられてHHKBのタイプ音がノイズ。両手をとめたい、BGMなのに仕事が捗らないとか(笑)

土・日、本を読んだ。寝食忘れて、とはいかずしっかり覚えていたけれど、それ以外はずっと文字を追いかけた。腰痛が集中をさまたげる。Twitter や Instagram や アーティストやショップのFB告知をちょいちょい のぞく。また文字を追う。追いつけない言葉を捕まえようとつんのめり転びながら読む。

本をむさぼりたい。年に数回やってくる衝動。これがやってきたら待ってましたとほくそ笑み、書架からいつもより厚めの認知系や認識論、言語系の書籍をめくる、めくる、パラパラ漫画。最近は違う。そういった書籍に手をのばさない。今回は久しぶりに再読(再々読、もっと?!)ばっかり。

小説と詩集。年代の古いものから読む、読む。読んで積む。土曜日の朝から読み始めて、日曜日の夕方、あっ!! っと声を出してしまった。

変化。

あたりまえなのに驚いた。文体や表現の方法が変わってる。比喩の使い方や言葉のつなぎ方、情景の描写、それらがかわっている。

分析したくない。意気込みもない。いまの気持ちで読んでみたかった。自分の気持ちを代弁してくれるような、空白として残しておけないスペースにはめこむピースを求めるような淡い期待は残していた。

ビル

仕事の話を別の何かに置き換えて解釈してもらう。相手が興味を持っていることや相手の仕事の分野に置き換える。もし自分なら写真に置換してもらえると理路の扉が開く。

歯科医院のスタッフと話すとき、美容院や化粧の話に置き換えたりする、毎回ではないけれど。まったく存じ上げないので話がちぐはぐでつじつまが合わない。それでよいと思っている。ふつうは反対だ。

アナロジーやレトリックは、物事の解釈を手助けしなければならない。せめて解釈のフレームを拡張する一助にしてもらわないと、戯れ言であり、おまけにまったく笑えない知ったかになってしまう。

なのになぜよいのか、を問われたらうまく説明できない。とにかく目の前の人はとんでもなくズレたことを話している、という感覚を立ち上げてもらえたら話を進めやすい。

たぶん、自分が「ズレ」に執着しているからだ。チームを外から眺める。そこで感じることはズレ。個と個のズレ、複数と個のズレ、チームと個のズレ、いろんな「ズレ」が隠れている。みんなそれぞれの思いや感情、そしてさささやかな論理を持ち寄ってモノやコトを調理する。時に思うように調理できないモノがあり、コトが起きる。それらはキッチンの奥へしまわれてしまう。

それを調理しようとしたら、各自の感情スープをたっぷり吸ったべとべとした「何か」を扱わなければならなくなる。誰もそんなものを扱いたくない。誰だってそうだ。私も同じ。

チームは利害関係を内包している。よかれあしかれ問わず、少々であっても利害関係はインストールされている。利害関係を完璧に除去できない。

チームの細胞は多様な感情を分裂させながら緻密に機能する。ただ正確に転写しながら分裂していれば問題はないが、しばし突然変異する。ズレが変異させる。暗黙のズレを各自が勝手に解釈してズレたまま転写する。ズレは拡大してチームに今までなかった影響を感染させる。

そんな動きをこれまでずっと観察していきた。身も蓋もない言い方すれば利害関係もそれほどなく、責任もないから冷たく観察できたのだろう。そういった体験から学んだことはひとつ。

ズレを強制的に修正しない。

否、むしろズレたままのほうがしなやかに機能していたり。ズレをズレのまま感じてもらう。ありとあらゆる「置き換え」を試みる。ズレている本人か関係者が興味を持っているコトやモノに焦点を合わせてズレの状態を説明する。

ズレを自覚する、これが「自分」というものへもっとも耐性をもたらす知覚だと思う。