diary

理想は思想

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2013.06.20 雨

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=37zfqCBvE2c]

caravan – TRIPPIN’ LIFE でスタート。ふらりぶらりふわり出かけたくなるとき。出かけたくなる距離が伸びていき、お出かけから旅へ質感が衣替えするとき。音が契機か気分が誘うかわからないけれど、耳に流しておきたい一曲。

6月に入って右足親指の痺れを知覚した。ごくわずかの違和感から痺れをはっきり感じて、以降これを書いているいままで続いている。寝ている時以外はずっと痺れている。足が地面に接地するとき、右足と異なる感覚。なんだか薄い膜に包まれて地面に着地する。

そうこうしていたら先週から右手の親指が痺れ始めた。はじめはスマートフォンを触っているときの違和感。右手の親指でタップやスライドしたら、足と同じく直接的な接触感がない。薄い膜を一枚覆って触っているみたい。

で、今週の月曜日、右手首から肘にかけて表面側(専門用語を知らない)が痺れだした。これを入力している今も痺れている。

いずれの痺れも激痛ではない。手足の親指はじーんとして鈍い痛みといえないような感覚。肘にかけての痺れはピリピリに近いか。痛みの表現は難しいな。

困った。身体というより、仕事していても痺れが意識をもぎとっていくし、少し入力したら右手親指と手首から上の痺れがピリピリするのでままならない。

こういうとき検索しない。体の違和感や病気について検索しないようにしている。医療は非常に高度な専門領域。素人が診断できるわけがない。そんな自己判定は己を危うくするだけだと思っている。

検索するなら専門家に診断してもらって説明を受けてから。説明の理解を深めるため、知識を学ぶため、または専門家の方々へなるべく効率的かつ効果的に質問するために検索する。「何を調べなければならないか」が判明していれば検索しやすくなる。「何を検索するかはっきりしない」検索は、自分を誤った判断へ導きかねない。

琵琶湖 MICHIGAN

原稿を書き起こすために録音した会話を再生。自分の声としゃべり方を耳にする。苦行。いちばん嫌な作業だ。自分の声が気持ち悪くてしょうがない。発話している時の声は気にしていないが、録音された声は心底嫌い。昔から変わらない感情。

我慢しながら聴く。テクニカルな点に集中した。口語と文語の違いが浮き上がる。明確な差異。口語と文語はそれぞれの特性を持つ。

口語はランダムであり、曖昧な表現を視覚情報(身ぶり、手振り、表情など)が補完する。補完とは、置き換えれば、勝手な解釈といえる。文語はシーケンシャルであり、曖昧な要素や文脈を「言葉」でさらに補う。よって情報量が増加しやすい。

両方の特性を考慮して、原稿を読む人への伝送損失を軽減させる文章を書きたい。口語ならではの雰囲気を残したい。それが難しい。文意の構成、文体の技巧、語彙の範囲が問われる。

視覚が勝手に解釈した情報を補正していくプロセス。それが会話の醍醐味だろう。時間をかけて補正する。補正するはずの会話の最中、視覚はさらに自分の「側」へ勝手に解釈する。たぶんそんな果てもない円環が繰り返される。

私から見た「都合」と相手から見た「都合」があり、互いが自己都合によって了解できるまで、願わくば自己都合から離れて自己と他者の「中間都合」の合意にまで根気よく補正できたら理想かもしれない。否、理想はないかな。理想は危険な思想。

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