diary

対話と独白の緩衝地帯

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2013.06.26 雨

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=7ZKhC8AqYG4]

安藤裕子 – 隣人に光が差すとき でスタート。ほんとは、「それから」がよかったけど、見つけられなかった。それからの歌詞、「いつか会えるなら 笑って言えるように ありがとうの言葉を 伝えられるように 届けられるように」の部分、時にはこんなストレートな歌詞も響いてくる。ストレートすぎて恥ずかしくなりながら。

自分の手足や目の痺れは我慢できる。痛みは痛み方次第で我慢できそう。自分の痛みは痛みとして知覚できる。だけど文字に認められた誰かの痛みはどうしたら。誰かが大切な人で、体が直接損傷を受ける痛みではなかったら、なおさらどうしたら。

どうしたら、に否定の戸惑いは一切ない。やるべきことを思い巡らす。その痛みや辛さを想像できない。想像できたら失礼で偽善だ。

まっすぐ素直に向き合い、目を合わせ、声を少しでも受け入れ、その場で紡がれる言葉に思慮を深める。それぐらいかなって思う。自分ができること、やるべきこと。少なくても、「ひとりはいる」という事実を言葉ではない仕方で受け取ってもらえるように努める。

自分のバランスが保ちにくいような、パズルのピースが揃わないような時、ふと思い出してもらえる。それだけで私が「ここにいること」を私自身で確認できて安心する。

意味や理由はあとからいくらでも自分の納得いくように書く加えたり、記憶の切れ端に継ぎ足せたら自己満足できる。でも、「ここにいること」そのものを皮膚感覚で確認する機会はそれほどない。

琵琶湖疎水

書く、という行為は対話と独白の緩衝地帯を歩いているみたいで、一人以上二人未満の作業だ。独りではない。混濁の交感。その相手は人数にカウントできない。不可思議な感覚と感情を抱えたまま、最も遠くにある”誰か”を探る。

読み手に開かれている文章を書くとき、緻密に理路を記していかなければならない。自分が理解している点をついつい省略する。理解と不明を行ったり来たりしながら、思考の全体像を表す作業である。作業の途中で理解が書き換えられるし、不明が理解へ一歩近づいて文脈が拡張されたりする。

時間をかけて「理解」と「不明」を往来する。その行為が論理の積み重ねであり、不明から理解へ接続できない点を慎重に丁寧に考え文を書く。

しばしば「理解」を省略する。読み手は理路を閉ざされる。書き手の「不明」から「理解」への道筋だけが記されていて、「理解」から「理解」への文が書かれていないから「関係」がわからない。

人と話す時とも似ている。

書くと話すの違いはボリュームかもしれない。もし字数の制限がなければ、書くほうが伝達しやすいかも?! 理解と不明の思考の往来を着実に記述できる。往来を一歩一歩ゆっくり書くから分量は膨大である。冗長な文章になってしまいかねない。

話すは環境に依存している。環境が制約を設定する。設定条件に従ってはしょって話し、聞く方も一瞬一瞬で勝手に解釈している。

両方の特性を見極めて状況に応じた伝達手段を選択する。音声と文字と記号、言葉を組み合わせて最適に届けられるボリュームを調整し続けたい。

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