diary

外側にある理由

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2013.06.30 曇

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=HptBdEw2xgY]

IMANY – You Will Never Know でスタート。ラジオで知ってすっかりハマって、とりわけこれがお気に入りって、パターン。lyricに目を通してアンニュイっぽいって勝手にでたらめで翻訳して。声も好き。

1年の半分が終わる。ぞっとする。けどぞっとするの、もうやめよ。追いつかなくてよいし、追いつく必要はどこにもない。おぼろげな何かに追いつこうとして焦燥感を膨張させて自分を演出しているだけだから。

自分を演出する一切をアンインストールできたら言葉はいまより減る。感性は最小限の言語構成を指向する。無音と無言に向き合えないから言葉にしたくなる。誰かを求める気持ちが沈殿する。

沈殿物を拾って捨ててきたつもりなのにちょっとやそっとでは取りのぞけない。月日が堅牢な沈殿物にして、心の深部と癒着した。自分を演出しないようにそぎ落としていく作業。その対峙の精度と確度を高めたい。

意味なく1年で区切るから焦燥感が浮遊する。日々を静かにめくり、やりたいこととやるべきこと、やらなくてよいことのミックスジュースを一日一杯飲み干す。あとは斜に構えたくなる気持ちをたびたび解放してやる。

“集合知とは何か – ネット時代の「知」のゆくえ (中公新書)” 西垣 通 を読む。唸りっぱなし。そもそも人間にとって”知”とは何か? から問い直す。自分の関心は、”知”そのものにない。本書や“ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)” 西垣 通 , “こころの情報学 (ちくま新書)” 西垣 通 を手にとって仕事で使えるヒントがあるか探探す。たくさんあって収集がつかない。唸りっぱなし。

自分にとっての’知”は、営みと生の隙間にありそう。日々を繕う。生そのものが抽斗に仕舞われる。忘れてるわけではいはず。なのに生が水道水みたいになって。何かの拍子で生を抽斗から出す。自分の感受は、生そのものへ常時接続していない。感受の帯域は狭い。

数多の出会いや出来事があり、その中の一つ二つが営みと生の隙間へ迷い込む。そのときに覚えていられる問い。感覚と問いを平明に記述できたら、それが知と受けとめる。

琵琶湖疎水

気持ちがぐらついて正体の知れない憂いが身を覆ったとき、誰かは他人をたぐりよせる。その他人が私であるなら私がここにいる「理由」を確かめられる。誰かの求めによって、私はここにいる理由を確かめられる。

「理由」を確かめられる機会は少ない。外側にある。見える景色と感じる質感は環世界だったとして、「理由」を私の内側で構成できるかと問われたらはっきり答えられない。自分の内部だけで完結できる、「ここにいる理由」を構成できるかな。難しいといまは思う。

私を確かめるために自分自身は必要不可欠であるにしても、たぶん自分以外のもう一人を欲望しているのではないかしら。

そのたった一人だけでよい外側の存在を探す。探究が、自分を演出することと自分を演出しないように削っていく矛盾を自覚させる。

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