魔笛、私的、素敵

2013.08.08 晴れのち驟雨 試練

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=6AumI68kFAM]

Indigo Jam Unit – Phoenix でスタート。懐かしくなる。どの記憶にもリンクしていない曲なのに、脳のなかのホムンクルスがそこら中の抽斗を開けたがる。無を拒んで有を絶叫。記憶と現在の並行。

ウェブ制作。アルバイトの資料がそろそろ届きそう。備えて制作の手をやや早めたら昼前に届いた。週末の到着を想定してたからちょっとびっくり。

週末から月曜日あたりまでに仕上げよう。来週は別のサイトをやりたいし。周りが夏季休暇へ突入するからどこへも伺わなくてよくなるときに籠もって煮詰めたい。

先月からあるブログを追いかけている。ライタの方らしい。内容と文体、表現に身を乗り出し、魅せられて過去のテキストを遡る。貪り喰う。

tweetもつい口元がゆるむ。ユーモアと茶目っ気、時々のエロ。エロの湿り気と乾きの配分が絶妙だ。

何が違う? 自分と。

やっぱり感じ方じゃないかな。自分にはない感度、自分にはない視座、素敵な感じ方。

少しでもああいう感じ方ができるようがむしゃらに、少しでもああいう文章を書けるようトレーニングしなくちゃ。

薔薇

液晶に映し出される数々の作品と解説を視聴していたら、作品は教えてくれる。見た気になったらだめ、感じたつもりでいたらあかん、て。

眼前だよね。そう思う。自戒。

手に触れられるほど近くで作品と空気と全身がまぐあってこそなんだ。実寸。実物。実見、生身。

液晶の映像から体験を入力したら私は錆びていく。知識は話し上手で知恵は聞き上手、と誰かが言った。言い得て妙。

それらは錯覚じゃない。錯覚に好意的な文脈を持っているから”錯覚”と言いたくないな。液晶の体験は想像を機能させる土壌だとしても痩せてるだろう。生の体験は想像力を育む豊穣な土壌。

「見てこい」「やってみろ」と言うのは自分だけにして。それは他者への暴力だ。

流転と時機。「したい」から”い”が消去されるまでの感覚時間は十人十色。待っていたり、すぐだったり、徒然をくぐり抜けて。

待ち侘びて生き急いでつんのめり佇む。

散歩に出たら自然と人工の生演奏。自分が感じられないだけ。

他者の他者をもう一度。

浴びよう、浴びせよう。