時間をかけなければ本物は見えてこない

2013.08.28 晴れ

くるり – ワールズエンド・スーパーノヴァ でスタート。これ、ギターが好きなんだけど、なんて言うだろ? カッティング? こういうギターのリズム、”お気に入り”って書き殴ってまるっと円で囲みます。冒頭の歌詞がくるりぐるり私を締め付ける。「いつだって僕らは誰にも邪魔されず 本当のあなたを本当の言葉を知りたいんです 迷ってるふりして」なんだ。「ら」なんだね、そうなんだ。新鮮。

第四十一候、天地始粛。秋雨前線が登場する時季へと。空の模様が変わり、空を見上げる人は秋をよりはやく見つけ、自分なりの秋を感じ、昼間は処暑と朝夕は秋のスイッチバックで秋の頂へ登っていく。

旬の魚は鯣烏賊とのこと。子供の時に烏賊を食べてひどい蕁麻疹になってからずっと食べられず、爾来、避けてきた成人のある日、先輩に誘われて行った小料理屋でおそるおそる箸をのばして口へ運び、なるべく噛まずに飲み込んで、翌日、胸部と腹部を確かめたら、烏賊を飲み込んだツルっとした食感が実感に変わった。大袈裟な記憶なんだが、妙に嬉しかった。それからは好物のひとつ。

日曜美術館 影絵作家・藤城清治 89歳の“風の又三郎” を見る(参照)。驚きっぱなし、圧倒されっぱなし。89歳のいまになってようやく『風の又三郎』(宮沢賢治)に取り組めるとおっしゃっていた。これまで宮沢賢治の作品を影絵にしてきたが、これだけはできなかったと。10年前では無理だとおっしゃった! 今だからこそだと。

作品への想いだろうか、畏怖か。わからない。藤城清治さんの一言一句は、材料をためらいもなくカッタでザクザク削って影絵を制作するのと等しく一発勝負のかけがえのない重さを表していた。

全てのもの 自然の美しさにも言えるだろう。目に見えるものだけでなく 奥にある 目に見えないものまで描いてこそ本物と言える。本物の美しさは 奥に隠れていて簡単には見えない。時間をかけなければ本物は見えてこない。

藤城清治さんの言葉

全てのもの、人にもあてはまるだろうか? 伺ってみたい。強烈な衝動。

本物は絶対唯一だろうか。本物はそれぞれの人の中に存在するだろうか? たとえ周りは本物にあらずと判じても私だけの本物はあるだろうか? 普遍的なものなのか? もう連想がとまらない。おかげで問いの食欲が旺盛になった。

もし、絶対唯一の本物ではなく、私が本物と感じる? 受けとめる? 考える? …..etc があるならば、今際の時空までリンクした人がそうなのか。男女関係なく、いかなる属性も取り払い、リンクしていた人。時間をかけなければ本物は見えてこない。

小道 光と影

大阪へ。夏休みはお仕舞いだよぉな列車内の朝。

院内資料の最終仕上げ。スタッフの方から後輩の指導について質問を受けた。先輩になっていく過程で後輩を適切に認識していらっしゃる方は、踏み入れる領域なんだろう(憶測でしかないけれど)。先輩が後輩の所作に悩む。

「学問には王道しかない」(“喜嶋先生の静かな世界 (100周年書き下ろし)” 森 博嗣 大好きな一冊)の言葉を剽窃する。「育てることには王道しかない」と私は思う。”育てる”の中に見下すニュアンスはまったく含まれていない。育てることは自らも育つこと。院内のみなさんを外から観察して、そう受けとめている。

人は己の”時間軸”をショートカットして他者を見る。私でいえば社会人になって17年。「すでにできている」の眺望点から若い方々の「できないこと」を見る。ショートカットはとても危険だ。

「できている」視点から「できない」行為を観察したら、「意味不明」にしか映らない。相手がちぐはぐな動きをしていると判断する。判断の基準をいったん捨象して、ちぐはぐの動きをゼロベースで検証する。

古典を読むとき、当時から現代までの「時間」をいったん括弧に括って、当時(だけ)の世界を立脚して没入する行為が想像力じゃないかな。

すこし腐っていたところへ教えてもらったアーティスト。ある曲の歌詞にガツン。すべて言いたいことだった。こんなにもこんなにも表している歌詞に出会うとは!

おだやかに眠れた。