diary

奇妙な勇気

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2013.09.09 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=m1n_7_XJ6Ag]

忌野清志郎 Feat. RHYMESTER – 雨上がりの夜空に 35 でスタート。何も言わなくてOK、サイコー。ボス、なんで、なんで、なんで、って思ってしまうけどね。

目が覚めてすぐにカーテンを開けると薄暗い。今年はできるだけ集中してカーテンを開けたときの景色を見ていた。1分ずつ遅れていく日の出が演出する微細な変化を認識できないけれど、昨年までよりも「あっ、何か違う」の感覚は身体に残せた。

あの朝の気配。雲がない高い空につられて外へふらり。カラリとした空気は雑多な匂いを鼻腔へ置いていく。一駅ぐらい軽く届きそうな透明感。東大阪の頃は、祭りまでの朝と勝手に呼んでいた。祭りまでずっと匂いと皮膚が滑っていくような空気が続く。太鼓台を担いでいた記憶が再生される。

SFを読んでいると、極度に画一化された社会の描写がある。どうしてそうなるかがテーマのひとつで、読んでいると納得できる。が、その世界は虚構だから安心して了解できた、いままでは。

だんだんそうじゃなくなってきた。SFは現実への警句と虚構への希望を描くグラデーションかも。

「ひとつ」へ向かう多様性を纏った単一。「ひとつ」のなかにいろんな意見はあっても、「ひとつ」へ熱狂する。熱狂は、嫌いなものや見たくないものをおしのける。取りのぞく。

抵抗されると罵倒しながら、根絶やしにする。

Twitterで「隣の」を検索すれば、至るところで「見られている」世間が浮かび上げる。自分は見ている意識と自分は見られている意識を測ったら前者がやや重い、ぐらいが互いに監視するのに適している。

東京五輪2020年が決まったとき、「7年後」を計算しなかった。「7年後」を思い浮かばせることもなかった。苛立ちだけ。苛立ちだけの自分を知覚して、あっ、ちょっと変わったんだな、と感じた。

先月か、先々月から追いかけているブログの方が、Twitter のアカウントを削った。テストらしい。Twitterのアカウントはある条件下なら復活できる。復帰するつもりでいらっしゃるらしいが、どうなるか追いかけたい。

自分の中では「インターネット」があったのに、いつしかSNSがインターネットに置換されつつある。

「いまは過渡期だ」と、評論家が使う言葉があるが、いつだって過渡期であるとも言える。SNSはこれからも進化していくだろうし、誕生するサービスや消滅するサービスがオセロのようにゲームをくり広げるだろう。ただ、誕生と消滅が続く「過渡期」に身を置くか、過渡期から距離を置くかのメタな「過渡期」に対して意識の立ち位置が迫られているような気はする。

わかっているのは、奇妙な勇気。日々の営みのなかでの孤独(悲観的な意味はない、念為)と向き合えるようになってきているのに、SNSの中の孤独に向き合えないとしたら喜劇か悲劇。喜劇か悲劇の舞台から降りる奇妙な勇気。

奇妙な勇気を身につけられるかどうか。身につけたいか否か。

アカウントは削れても、営みのアカウントは削れない。自分とまだまだ対峙していない。

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