探しているものは内にある

2013.09.10 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=gkS7fJN0vRA]

“夜はミカタ” 青谷明日香 に収録されている route。この間、アルバムを聴きながら本屋の本棚とお見合いしていると、不意にこの曲がものすごくリアルに入ってきた。何度も耳にした音と歌詞がまったく異なった質感へ変化した。落涙しかけた。慌てて本屋を飛び出したんだけど、あの”リアル”な感覚がまだずっと残っている。

暑さが忘れものを取りに帰ってきた、天高し。迷子にならないでほしいが、忘れものを忘れたらしく、思い出そうとしばらくぐるぐる探し回るようで、大気は熱を帯びる。蒸す、っとご機嫌ななめ。はやく見つけてほしい。

「世界へと つぶやく前に 周り見ろ」と中学生は川柳をものす。素敵だ。つぶやきだけじゃない。文字が安堵をもたらす充足の空間。出力された文字を目にして、誰かの思考の痕跡と自分の徒然を乾杯して飲み干す。飲み干して酔う。醒めてもとへ。

机の上にいつまでも置いてあるライヴのチケット。行かなかったチケット。初めての自主的キャンセル。何かが変わっていく。が、何かは不明ゆえ探しに外へ出る。見つからない。探しているものは内にある。あると直観しても、内側を探究できない優柔不断。

優柔不断はもうすぐ終わりそうな感触。初めてのことに対する反動だ。反動の大きさに比例? 反比例? してる。振り子が反対側へ振れる時間がいつもよりずいぶん要した。礼文島から与那国島へドライブするような気分。辿り着けば、長い夢から覚めてひとつの現実を直視するだろう。

アルバイトの資料を返送するために郵便局へ。郵便局の往復と散歩。公園へ紛れ込む。誰もいない場所。X-E1をかまえてファインダをのぞこうとしたら、眼鏡の内側に汗がしたたり落ちた。眼鏡をはずして拭きとる。睫毛のロッククライミング。ごくたまに長い!と驚かれるけれど、よくそんな部位を見ているなと逆に感嘆である。

静寂と沈黙は何が違うだろう。芝生に座って生暖かい微風を浴びる。目と耳のラジオ体操。音の仕組みを勉強しておくべきだったと舌打ちしてしまうほどの音がぐるり聞こえる。空気の振動って単語だけが雲の上に浮かぶ。

静寂は伝わり、沈黙は伝わらない。

そんなイメージを描く。どうして? の自問。静寂は感じられるけど、沈黙は感じられない。ならば想像の差異? 「想像」はことばの空間を満たしすぎている。だから削った。「想像」は大切だけど、想像を口することが解であると誤解しかねない。「想像」ではなく、「想像という単語」は次への進化を妨げる。削ってもう少し潜ってみる。静寂は受動、沈黙は能動。浮かぶイメージ、掘っていく単語。連想、拡張、並列、修辞を往来してイメージを表現できる文脈をつくる。

途中でまたあの問題へ入る。迷宮。解けない問題。自分を一歩引いて見たときの自分をさらに一歩引いて見たときの自分をさらにさらに一歩引いて見たときの……自分の無限後退。屁理屈ではない。一歩引く感覚があるから言葉にできる。なのに無限に後退していく感覚はない。

無限に後退していく感覚はなくて、あらゆる事態を想定せよは乱暴な物言いと思える。一歩引いた程度の視点から見える「あらゆる」は狭いはず。

感覚を連れ添えない表現を口にする。他者に対して傍若無人にならないけれど、自身には傍若無人になれる。それぐらいでないと、なにもしゃべれない。