琵琶湖
diary

言葉と思考のルービックキューブ

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2013.10.21 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=v2y1pE3yn6M]

MICHAEL JACKSON – Heal the World でスタート。最近、ちょっぴりハマリ気味。歌詞を改めて読むと、今になって響いたり。不思議。邦楽の歌詞は身の回りをぐるり歌っているけれど、「世界」にまで達しない。比べるのは不毛だけどね。

第五十一候、蟋蟀在戸。旬の魚は梭子魚。指宿の宿で朝食に梭子魚が出てきた。七輪で塩焼き、ほぉぅ。身をほぐして口にほりこむ。ほんとに美味いものは美味い、あたりまえのことを教えてもらった。梭子魚をスーパーで時折見かけるが滅多に買わず、魔が差して買ってしまったら、食してこんなもんなんだろなであったが、当然間違いであり、たまにでよいから美味いものを食べようと実感。

誰かの意見へ憎悪を含んだ罵倒を浴びせたり、誰かの行為へ嫌悪を含んで非難することへ自分のリソースを注ぐ。罵倒は反論にあらず、非難は意見に満たない。まるで感情の石を言葉で固めた雪玉を投げるみたいに。見えない傷を負わせる。自ら考える行為へリソースを配分しないのか訝しむのだが、自分の行動から理解した。

私も同じように吐き捨てていた。うっかりテレビのニュースや情報番組のコメントを耳にしたとき、ほぼ即座に、反論に満たない感想にもならない、言葉を虚空に捨てている。無意識に嘲笑して、あとから自分の表情と言葉を想起したとき、「そうか、これか」と思い当たる。

誰かが「意見」や「行為」を「場」に置いてくれていたら、とても簡単に難癖をつけられる。驚くほど楽に責め立てられる。

そしてほぼ何も考えていない。直感の返答といえば切れ味鋭いコメントに聞こえるけれど、ウィットもユーモアもない自分の溜飲を下げるためにだけに使われる使い捨ての単語をかき集めているだけだ。

厄介なのは、誰かの意見や行為にそれらの言葉を浴びせられる自分を私は「自ら考えている」と誤解してしまう。

同じ状況なら私は何を述べて、選んで、行動しているか? 結果の事柄に至るまでに、表面に現れていない要素はあるのか、ないのか? なぜ現れないのか? 一つの事柄について事実の認識は複数あるとしたら、どの現象が合意に近い事実か?

そんな具体的な疑問から始めて、要素を腑分けして、自ら思考できる単語を探しながら、伝達するための言葉の配列を整える。

具体的な疑問からスタートして意見を述べられるまで整理整頓できたら、次は道筋を展開してみる。ルービックキューブなら一面が揃った感じかな。残りの5つの面を展開する。そこには倫理や道義、文化や風習、普遍や固有の事項や共通の了解が含まれる。

一つのマス目が言葉と思考みたいにガチャガチャしながら、自分で調べて、あぁでもないこうでもないと試行錯誤しながら、言葉と思考を並び替える。

そんな作業はしんどいだけだしおもしろくない。自らものをつくるより、目の前にあるものを壊すほうが楽でおもしろい。破壊衝動の快楽。皿を投げて割る遊び場があるらしいけれど、誰かの意見や行動を破壊するのもそれに似ているのかもしれない。

「設計」と「制作」の醍醐味を覚えた人は、自らつくる楽しさを知っている。たぶんそういう方々は、破壊衝動に関心はなく、設計と制作に没頭して、できあがった「もの」を繕いながらいつでも正常に動く状態を維持しようと努めるんだろうなぁって想像する。

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