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不となるべくうまく折り合える感じ方かな

2013.10.28 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=zvBJpxEzTs4]

Quantic and his Combo Barbaro – New Morning でスタート。ラテン?! ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(映画)が好きで、その系ではないとしてもこの系の音はだいぶ脳髄をえぐってくれます。とにかく音楽の「言語」を知らないので、「こういう」感じです。

早朝が寒くなってきた。一日に秋と冬が抱擁する時季。朝は初冬の気配がかくれんぼう、昼間は紅葉支度。黄と緑と茶系がまぐわっている木々と土が好み。

これから数ヶ月続く朝がお気に入り。日の出まえの目覚め。早暁の空と静謐、我の気分との相性がよいらしく、この時間を体感したくて早起きしてる。1ヶ月に2,3度、4時台に目が開く。ウィスキーをストレートでひっかけたくなるおまけがついてくる。

正午前に大阪へ出発。ミーティングで馬鹿なコメントを残して失礼した。自分がどんどん馬鹿になっている自覚だけはある。救いだ。賢くなりたかった自分は過去。もう抗わない。馬鹿なりに生き延びます、なんとか。

夕方、帰りの車窓から空を眺める。とても柔らかそうな陽射しが傾いて建築物へ差し込む。影が長そうだ。光と影と空の色。ずっと眺めていた、ずっと眺められそうだ。言葉がふわふわ浮こうとして、車速の演出が意識を奪った。

惜しむらくは鼻毛の処理を忘れたこと。どうもむずぅぞわっとしてきしょくわるかった。

10年前、今の自分を想像しなかった。”here now”(加島祥造先生)からはいまだほど遠いとはいえ、ほんのわずかな”いま”を拾えたら嬉しい。自分の根は変わらなくても、根を伸ばして幹を育てて枝分かれする「感じ方」は馬齢と歩調を合わせて変わってるかもね。

感じ方の変容は時に不幸や不満、不安の「不」をもたらす。「不」を取りのぞく感じ方をいつかできたら。違うな、「不」となるべく折り合えるような付き合い方ができる感じ方かな。

他者は「不」と折り合える視点と発想を贈ってくれる。昨日もそう。さえずりを目にして、自分の「固まった」見方をぐるりと回してくれた。とってもとっても嬉し楽しの瞬間。そんな方に見つけてもらえた高揚感は根に染み入る水のようにじわりじわりゆっくり身体を包みこむ。

とても気になることがひとつ。「難病重症者も自己負担を」と厚労省が素案を提出した(参照)。この素案に強い批判があって修正案が提出された(参照)。詳細はリンク先に任せる。釈然としない。

高度な専門領域を優秀な方々が議論しているとしても、「削減できる国費はある」と毒づいてしまうし、そうでないなら所得税を0.x%か1%でも増税してもらってもよい。

“いま”を楽しむ話と矛盾するのは承知している上で書くと、他人事ではないはず。大きい小さい政府の議論に関心は薄いが、守るべき人々と事がちぐはぐに感じる。国が認定した重症患者約八万一千人は無料で医療を受けている。「新制度案では助成対象を約三百に広げ、自己負担を二割に引き下げる」からといって、わずかな方々から自己負担を求める制度は「公平かつ安定的な仕組み」かな。

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*FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

ラルフ・エリソンは “見えない人間 (1)” ラルフ・エリスン, 松本 昇, Ralph Ellison で、「ひとが見ようとしないだけのこと」と書いた。誰にも見えないのではなく、誰も見ようとしないと。

これが原典か否か知らないけれど、人は自分の見たいモノしか見ない系ニュアンスのフレーズが仮想空間にいる。個々の配列は変わっても意味合いは似ている。

見たいものしか見ない、よね。それでよいんじゃない。健全な諦念もあるぐらいでないと息苦しい。

ただ、見たいモノしか見ない、と自覚している人と、見たいモノしか見ない人とには逕庭がありそう。優劣や良い悪いではない。私の希望は前者、現実は後者。

見たいモノしか見ないを自覚するんじゃなくて、自覚させてくれるんだ、たぶん。

自覚の契機は、自分の「固まった」見方をぐるりと回してくれる人であり、願わくば通り過ぎられないように、私は己の立ち居振る舞いを手入れしなくちゃ。何を手入れするかわかんないまま「何か」を手入れするような感じ、いまのところ。