難解な単語を使うけれど日常の単語は粗雑に扱う

2013.11.11 曇のち雨、時々晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=1N2eKUi6dHA]

SPECIAL OTHERS – Good morning でスタート。めっさお気に入り。毎朝聴いているラジオのエンディング曲でもあり、夜に寝る生活ができている間は朝をとても大切したいな。

11日。毎月やってくる日。目覚めて頭を垂れる。

二十四節気の立冬を迎え、第五十六候の地始凍。冷気が空間を張り詰める。”凜”を心象する。言語で捉えていた冬の訪れを肌で感じられる。季節が頭から身体へ移っていく。

GoogleやSNSから季節を知ってしまいかねない環境にあり、テキストが溢れる世界は季節を文字で知覚して頭へインストールする。きちんと身体へアップデートしよう。

「海凍る」「川凍る」「滝凍る」「月こおる」「鐘こおる」の季語を知った。響き。「こおる」の中に込められた思いや誓い。冬は削ぎ落とされる中にこそ感じられる妙を内包していると思う。

12:00前に大阪へ。13:30からミーティング、14:30すぎに終了。効率の代償を考える課題を与えてもらった。代償への認識は異なる。代償の有無は不明。内部と外部の立脚点は異なる風景を映す。

帰りの車中、稜線にさす光と影に見惚れた。立体が際立つコントラスト。

コントラストを眺めていたら「知」と「理」と「感」の単語がふわっと浮かび上がって、3つが”想像”とリンクした。貧しい語彙から単語をひっぱりだして組み合わせる。一文が象られた。

知を涵養して理を受容する。感を纏えたとき広大な想像が生まれる。

知は知性や知恵であり、理は情理や法則、感は感性や直感。ひとつの小さな想像を生んで広大な想像へ育てるためにこの3つが求められるのじゃないかしら、言語遊戯。

( さんぽでどんぐりをひろったよ。じんじゃのとりいのしたにならべてみました。みっつ。こちらもさむくなってきました。 )

どんぐり

( どんぐりときのこです。こうえんでみつけたの。したばかりみてあるいてるからかな(^^ ) たべられるきのこをみわけられるようなひとにあこがれるんです )

きのことどんぐり

難解な単語を使うけれど日常の単語は粗雑に扱う。現実にも仮想空間にもいる。私は落とし穴にはまっている。

粗雑とは相手への想像の欠如。

日常で使っている単語、日常になった単語、大勢が使うようになった単語、何気なく使っている単語を発話するとき、自分の「意味」で使う。

その意味は相手の「意味」と一致しない。

一致しないから想像する。慮る。相手はどんな意味や気持ちで使っているんだろうかと。

よどみなくなめらかに流れそうになる思考に、待ちを挿入する。

私が使っている単語の意味は、相手の中にある意味と必ずしも一致しない。これが礼節であり想像だと思う。

どれだけ難解な単語を使っても日常の単語を粗雑に扱う語りは、しゃべっているだけだ。記号を発音しているにすぎない。相手に一切伝わらない。伝わらないのではない。伝えていない。「伝えても伝わらない」のとば口にすら立っていない。

日常で使う単語、あたりまえすぎて辞書で引かない単語を丁寧に扱う。あなたと私の意味が、一瞬でも均衡を保てるように手間をかける。

意味がないときもあるはず。

言葉に臆病で慎重でありたい。言葉に囚われて他者を見失う。