「白」との絡み合い

2013.11.15 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=KAe11J6Y5wI]

Lightnin’ Hopkins – Katie Mae でスタート。サーフィンとアコースティックギター、車の整備が好きな弟のCDはブルースとジャズがひしめき合い、兄はまったくわからないまま聴きます。これもそのなかの一曲。

地球の自転の速度が三倍速なら涙はもっとはやく乾くのでしょうか? って思いついた途端、誰かがすでに思いついているんだからもよぎる。

公園を散歩。X-E1のファインダから諸方をのぞく。手入れは手間暇いらずからほど遠い。手入れしてくださっている方々がいる。そうわかる。公園の中は手入れされた場所と手入れされていない空間がある。両者の境界線は破線未満の淡い度合であっても、ココは”まま”かもが点在する。

滋賀県でも熊が街へおりてくる。たまに報じられる。各地で散見される事態について、山を手入れする人々が減っているからだと、ずっとまえに何かで読んだ。手入れされた山は里と区分している。ここから先は里だという意思が表現され、熊は区分を認識したから降りてこなかった、みたいなことが書かれていた。偽造された記憶を割り引いても、本当の話かどうか知らない。

熊は人間の思想的結論の有無に関係ない。生存へ切実であり本能だろう。“羆嵐 (新潮文庫)” 吉村 昭“慟哭の谷―The devil’s valley” 木村 盛武 を読んだとき、共存を突きつけられた。

養老孟司先生が同工異曲で書いてくださる昆虫のお話。人工世界には昆虫がいない。屋久島や白神山地などには特殊なものがいる。特殊であって豊かでない。「虫の種類が一番豊かなのは里山」とよくおっしゃる。里山が日本の特徴であると。ただ日本では少なくってきたとの由。

「自然のまま」である場所を人が生活に使うものをとりそろえられるように、「手入れ」する。思いのままにならない「自然のまま」をほんのほんのわずかだけ「思うようになる」場所をつくる。そこを手間暇かけて整える。整え続ける。生活に使うものだけをとりそろえられるように。

字面で書ける。それは手入れの苦労を私は知らないからだ。無知ゆえの無恥。書きながら言葉が上滑りしていく感覚。

だけど手入れをもっと学んで自分のなかに取り込みたい。

( いちょうのはがおちてきました。おちたいちょうもすきなんです。ここはおきにいりのばしょです。つちがきいろのじゅうたんにかわっていきます。とってもうつくしいです。 )

イチョウ

先生のおっしゃる手入れとは違えど自分の身の回りに手入れはある。大層な物言いであるが、生活そのものが手入れだと思い始めた、大仰ですが。狭い範囲から少しずつできたらと。

靴や財布を手入れする。靴を磨く。なんとなくわかる、どこが減り傷つけているか。10年以上前に買った財布ははじめ手入れしなかった。ぞんざいに扱った。手入れが遅かった。それでも最初の色合いがわからなくなった風合いがちょっとうれしい。

だとしてもマクロビオティックやヴィーガン、ロハスやオーガニックなどへ傾くことなく、そういう事象からは距離を置く。

調度品も手間暇かけて持たせ続けられたらと夢想する一方で、適度な快楽消費は生への潤いをもたらしてくれるとも考える。バランスでもない。何から何まで手入れできるほど性根が据わっていないし、根は怠け者だ。自分で自分を裏切らなくて楽しめる手入れと快楽な消費を両極に置いて複雑系の生活様態を過ごせたら知足。

私の中に空白と余白をつくるために快楽な消費をうまく扱えたらね。難しいけど。「白」をどうするかが思考と感性の遊戯。白のままにしておいてもOKなんだし、白の面積が広がりすぎたら”ぽっかり”に変わる。「白」との付き合い方。「白」のなかに隠れている自分と向き合う。

その時空をまだまだ楽しめない。これからこれから。