皇子山公園

リアルな偶像

2013.12.19 小雨

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=6QEPrDBMqJ0]

Robert Miles – Children でスタート。疾走感と焦燥感が混じり合って常態が異体をパージするイメージがいつもある。

胃痛が続く。過去の痛みのデータベースを参照してみるがエラーが返される。見つからないと。できるだけ鳥瞰できそうな視座から身体と心情を観察する。記録に残すために。はじめての痛み。それが身体であれば恐怖、心の痛みならば破壊が他動する。

お腹が空かない。腹筋が終わった後の張りに痛みを加えたような感覚である。空腹があたりまえではないことを教えてくれる。

お昼、突然、卵焼きを食べたくなった。冷蔵庫から卵を取り出し、ボウルの縁でコツンと叩く、亜麻色の砂糖を少し、醤油は勘所、めんつゆを数滴、お水はシングルショット未満、菜箸を立てくるり、黄身の輪郭がゆらり、箸の速度が逓増して、揺るぎない物理法則に従ったボウルは一瞬の万華鏡である。

銅の焼き器を取り出し火を入れる。阿列布油をひいて少し待てば、注いだ分量より多い油があらわれる。四方に焼き付いた油がとけるからか、発生した刹那の現象をじっと見つめる。

煙の立ち始めた銅の上に一滴を垂らして線香花火ならば、鬱金色の液体を流し込む。奥から手前へくるくる手繰りよせ、ふたたび流し込むこと四度、液体は固体へ変わりゆく最中、膨らんだ数個のボコボコを箸でつつく、破る。

最後の巻き、集中、慎重にしっかりと。銅から皿へ引っ越す、湯気が立ち、焼けた匂い。

会社勤めしていた頃、「F*jin*さんってどんな店でも”ごちそうさま”か”おおきに”って声かけて店出はりますね」と後輩から指摘された。

以前、「ブーツ、ええ感じですね」とある方から言われた。綺麗と伝えたかったわけではなさそうだが、ニュアンスを掬い取れた(と思う)。気づいていらっしゃるご様子である。

両方とも一回だけの体験である。後にも先にもない。無意識にやっていることを他者が指摘したとき、意識が前景化されて記憶を彫る。強く残った。

見ている人がおり、感じる人がいる。それだけのこと。十人十色の視線があり、ある種の様態は十人すべての視線を集め、反対に、一人だけが注ぐ視線がある。感性か関心か何かに刺激された眼差し。

優劣、善悪、好悪などではない。自分の重心がどの系におかれているか。

一人だけの視線を注げるような系に私は置きたい。系への見方をかえれば意固地、わがままである。それでよいと思える踏ん切りはつけられた。ならば、使い古した常套句、「わかるひとに、きづくひとに」をもっと使い古して使いこなせるようになりたい。頭を液体に。

( りんごです。ふくしまけんからはこんでいただきました。はこをあけたときのかおりがあじにつながっています。ほどよいあまさでちょっぴりのすっぱさ。りんごはだいすきです。まいにちたべたいぐらいです、へんでしょ。 )

りんご

効率が高く、高回転数は安住である。馴化は快適を与え涵養を奪う。自分の重心はその系に置かれていない。

「大事」を贈与してくださる中身は、たくさんの無駄を包括している。無駄を否定の意図で使わない。自分の語彙はそうあっても他者は違うかもしれない。配線がきれいにとりまとめられた誰も見ない箇所、ひょんなことから誰かが内部をのぞいたときにはじめてわかる。

進化は時に人の心を閉ざす。いったん閉じた精神が熟成する時間。

目まぐるしく変化する時勢になじまないマイナな感覚だとしても重心を置く。正しく釣り合うことがバランスではない。

わかろうとしなければ認識できない、体感できない、理屈では説明できない惹かれる事象に触れたい。ある点を越えた事象に触れるには、境界の彼岸を自分で探さなければならない。百貨をそろえた店がプッシュ通知する陳列からは見つけられないように。

それは検索しても見つからない。偶然がもたらす契機に反応できたら展開される理解。

[ad#co-1]