散りゆく花びら

想いは散る

2014.01.06

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=y8AWFf7EAc4]

Jeff Buckley – Hallelujah でスタート。年末年始、青谷明日香さんとこれを聴いていた。ひたすらただ淡々と。

年々、暦の行事へ向き合えなくなる自分に一掬の違和感あり、一切は自分次第ならば、ままよ、おおよそいつもどおりの日々。

年始、口に絶ってきた身体の習性を吐露できた。難儀な煩いなれど、新年早々、欣快の至り。

起床はいつもより1時間ほど遅めの年末年始。MacBook Proは修理入りして手元になかった。日常が引き込み線を走行したようで、異なる景色を楽しむ。

仕事、読書、散歩、写真、モノとコトとエモーションの整理整頓。アレ、いつもと同じ?!

あるものがない暮らし。わかる時間、まかなう感覚。

母親は正月も仕事しているので両親の宅へ参らず。ひとりの女性として心の底から誇りに思い、尊敬している。ほんとに素敵な方だ。5年前のあの日から今があることは、いまだに頬をつねりたくなる。髪の毛が生えた夢よりも夢を見ているみたい。

帙を繙くにちなんで革のカバーを欲する。検索しない。色と形、手ざわりを虚空に描く。朧から細部までの色調と階調が物欲を弄ぶ。

手入れしながら散骨までお供してほしいから慎重に選びたい。持つ前から都合のよい空想だ。

「人は本のカバーみたい」

日記に記した記憶。10代か20代かは、定かでない。

中身は変わらないけれどカバーは変わる。中身とは気質であり、カバーは行動とでも言いたげだったあの頃と、気質はたいして変わってないが、カバーは齢に合わせて着せ替えられた。携帯電話が「待ち合わせ」を消してしまったような行動様式の移ろい。

10代か20代の頃に書いた本質は変わっていない、か、わからない。表現は感じるまま変容した。

書物に備忘や記号を記すように有形仮象の跡を残し、なかには頁を折るような折り目がつけられた出会いもあった。

( あけましておめでとうございます。おしょうがつはどんなふうにすごされのでしょう。 ゆきげしょうかな。 そちらよりあたたかいのにわたしにはさむいおしょうがつでした(^^;) )

山茶花

10代や20代の自分の断片と会話できてよかった。

何が変わり、変わらぬか、変わってゆくために変わらないものは何か、「変わる」の呪縛から解放され、新しい情感はふたたび生き返る。

誤解は破壊と表裏一体である。

自ら壊したなら自らまた作ろう。もとのかたちでなくてよいから。