2014.02.24 晴れ
第五候、霞始靆。春に出る霧を霞、夜の霞を朧。夕方の琵琶湖、堅田や守山、琵琶湖大橋を望む。霞んで見えた。
旬の魚は鯥。こちらでは見かけない。近所だけ見かけないか、いずれにせよ好物をあまり口にできぬ寂しさ。5月、佳肴を存分に楽しめると思えばいまから胸が高鳴る。
すこしあたたかくなった。夕方の湖岸、ウォーキングやランニングの人々を目にして、冬眠する動物にはどんなのがいたかしらってよぎる。
おおよそ決まった時間に同じ場所へ足を運ぶ。変化がわかったらおもしろい。真冬にはいなかった人々が現れ、釣り人が集まり、お天道さんの働く時間は増える。
内田百間先生は一年中蕎麦を食っていた話、イマヌエル・カントが散歩で前を通るとみな時計を合わせた逸話(誇張されていると思うけど…..)が残っている。毎日、同じものを食べる、決まった時間に決まった道を通る。
ーーーーーどうしてそんなことしたの?
わかるわけない。同じものを食べる。その日の体調や気分によって味は変わり、自分の体の異変を察知できたかもしれない。毎日、高い精度の散歩をしていたら、人々の暮らしの変わりようを認識できたかもしれない。
外からたくさんの刺激を受ける。情報量は増えるから処理に追われる。大量にインプットしてこそ高品質なアウトプットがある。
自分に照らし合わせれば違う。情報処理に追われ、いつしか処理の「やっている感」を幻覚して、安心したいために大量の情報を処理したい本末転倒が待っていた。インプットの能力に欠陥があった。
削り落とし、削ぎ落とす。
感知のお腹をすかせる。認識を飢えさせる。感じたい、見たい、知りたい。飢えることで変化を見逃したくない気持ちが芽生える。
( あっぷるぱいです。すうねんまえまでたべられませんでした。いまはだいこうぶつです。はじめてたべたものでなにがおしかったですか? これからいろんなものをめしあがってくださいね。たくさん、いろんなもの。 )
“「日本が変わってゆく」の論―ああでもなくこうでもなく 3” を読み返している。橋本治先生は怪物だ。回りくどく感じる人もいる。確かにそう、そらそうなる。だって、自分で考えた最初から最後までの道筋を「すべて」書いているんだから。
考える、ってこういうことだし、先生のおっしゃる「技術」もそのとおりで、考えるって自分の手足を動かすことなんだって改めて確認できた。
字面を目で追い、頭で文章を解体して組み直しても、考えたわけじゃない。
多くの他人が関心を持つものに、自分は関心がない。多くの人が関心を持つのだから、それは多くの人にとって意味があるのだろうーーーーーだから否定はしない。しかし、多くの人が関心を持たず、もっぱら自分だけが関心を持つものにも、重要な意味があるーーーーーだからこそ自分はそれに関心を持つ。いろんな人間がいろんな形でいろんなものに関心を持つーーーーー「それでいいじゃないか」と思って、私は勝手に役割分担制度を実施してきた。ところが時々、関心なんか持ちたくないものが、平気でその分担制度の壁を破って侵入して来るーーーーー侵入して来たような気がする。私の悪口はそこから生まれて、私の悪口の特徴は、「普通、人が悪口を言わないようなものに対して、とんでもない視点からとんでもないことを言う」というものになる。
このあとに続く、”「下手」とはいかなることか”の中の「クロート」の理路は毎度唸る。
「自分とはなんだ?」ではないんだ。もう一回やり直し。何度でもやり直そう。