漆喰
diary

欠片をひろいあつめる

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2014.03.02 曇り時々晴れ

[youtube:https://www.youtube.com/watch?v=_d-E6RuBhDQ]

小沢健二 – LOVELY でスタート。ファンの世代が広くなっても、あの時、あの場所で、あの音楽を聴いて育ったリアルタイムはアーティストといっしょに歳を重ねていく。ローリング・ストーンズのライブに50,60代の方々がいるように、小沢健二さんを「リアルタイム」に聴けてよかった。

朝の起きぬけに珈琲をのむとき、なにか口にする。なにも口に入れずにのむと胃に悪い、そんな伝聞を真に受けて、たとえば源氏パイやチョコパイをカップにそえる。

これもよろしくないのではとふと思いつつ、朝食未満の罪悪感と珈琲だけじゃない免罪符が、ブラックにかき混ぜられてとける奇妙な時間をすごす。

いてもたってもいられない。そう思わせる。自分とどこが違うの? むずかしいこと何も書いてないのに、本人がおっしゃるように感想文なのに、なのに、いますぐ本屋へ駆け込みたい。

“私たちには物語がある (小学館文庫)” 角田 光代 を読んで感じたこと。

目次をめくっていきなりのけぞった。知らないタイトルがずらり。えっ、こ、これをいまから紹介してくださるの? はじめから質量の違いにくらくらしておそるおそるめくる。

「なにも読んでないんだな。そんなに読んでいなくて、よく作家になろうとしたもんだ」と老編集者から言われて、二十三歳の角田さんは呆れられたのなら、それより20歳ほど上の私は呆れられることすらないだろう、とへんなところで自分をなぐさめた。

私の読書は欠片を拾いあつめている。虚構を読み、そのなかから私だけの欠片を拾えたとき、虚構のなかに現が宿る。「現実はいつも小説を凌駕しているし、小説を書くものの想像を軽々と超える」としても、読み手の私は虚構のなかから欠片をさがす。

その欠片はこれから役に立つかもしれないし、このさきずっと役に立たないかもしれない。あるいはすでに現実に起きたことへいまだに保留ボタンを押して、今の私を待たせ続けている過去の私へ差し出せる欠片かもしれない。

役に立つかどうかではないんだな、きっと。暮らしの種蒔きだ。

( かげとつちです。わたしがこどものころよりもつちがなくなりました。これからつちのうえをおもいきりあるいてくださいね。はだしであるいてみてください。からだがよろこびます。つちのにおいをかいでください。 )

光と影と土

第六候、草木萌動。緑の出番。どこを歩いている時にほんのり薄い緑に気づくだろう。どんなときにはっきりと感じるだろう。それもまた散歩の楽しみのひとつ。

からだの衰えを感じるようになった。といっても序の口だ。疲れが残りやすくなったし、食べすぎれば寝付きが悪いけれど、まだまだ思うように動いてくれる。

これからだ。頭の中の映像とからだを動かしたときにずれが生じて、ずれの残像は鮮明になっていくだろう。

頭は回転するのにからだが思うように動かなくなるとき、不安と恐怖を抱く。この二つとよりそっていけるようにしたい。

不安と恐怖の矛先はまわりへ向かう。自分へ向けるには残酷だから。他人へ向かっている不安と恐怖を自覚できなくなることが老いのはじまりであり、自分はああなりたくないと感じても、少しずつそこへ近づいていく。

悪いことではない。

自分が子供だったときを忘れて不寛容であるよりも、運よければいずれやってくる私へわたせる欠片をいまから拾ってると思えば、ちょっとずつ寛容になれる。

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