琵琶湖

変わったのに変わっていない変わり者

2014.03.03 晴れ

変わった。どちらが変わったかわからないけれど、そう言いたくなる感覚。

野菜だ。

いまなら菜の花。苦くない。品種改良が進んだからか、私の味覚が変わったか。あるいはどちらもか。とにかく変わった、と私は思う、思いたい。

ーーーーー変わる

私は変わったのに君は変わらない、君は変わらないけれど私は変わった。曖昧なのに使い勝手がよい。書き分けがむずかしくても、ついつい使う。使いこなせない道具でもひとつやふたつもっておけば、安心できるように、「かわる」もその一つである。

面と向かって変わったと言うのはためらっても、野菜や果物なら容赦なく言えよう。作っていただいている方の苦心をよそに、自分の味覚は変わっていないと確信して口にする。

変わっていないことを誇らしげにするし、変わったことを理解してほしかったり、変わるが帯びる魔性はとかく変わり者である。

野菜から端を発した「変わる」が、寝巻についた一滴の漂白剤みたいに気になった。思考の色が抜けている。散歩のお供にもちだして神社へ足を運び、はじめての上巳をどんなふうに過ごしていらっしゃるか問いかけながら参拝。

その足で湖岸へ。道すがら強い風がからだをぬける。引き返そうかちょっと迷う。空を見る。深い夕焼けになりそうな気配だ。

空の様子からなんとなくわかる。空気が澄んでいる。たぶん対岸がくっきり見えて、湖東の稜線が際立っているはず。予想ははずれてもあたっても、眺める景色の一度きりに変わりはない。

( さつまいもです。だいすきです。でもせんそうちゅうはこればっかりたべていたからもうたべたくないとおっしゃるかたもいます。せんそうはぜったいだめなんです。さつまいもをみたくないなんてよのなかにしちゃいけないです。いつかめしあがってみてください。 )

薩摩芋

“養老孟司の大言論II 嫌いなことから、人は学ぶ (新潮文庫)” 養老 孟司“フラニーとズーイ (新潮文庫)” サリンジャーを購入。書架にあるフラニーとズーイのふたつを読んでみよう。先月につづいての大言論。読みはじめる。短文でつないで、話があちこちに飛び、最後は深いところまで連れてもらえる。

先生のおっしゃることは、理解できない難所はあっても、ちゃんと登って下りられる標高だ。かんたんな単語、見過ごしがちな日常に思考の焦点をあてて、他の方とはまったく違う構図を切り取り、言葉の奥行きを広げる。

大勢の人が通り過ぎてしまいがちな場所に立ち止まってみたい。

人とは違う見方で世の中を見てると意気込んでいると見られない。たぶんそういうものなんだ。

自分の思うように見ているうちに、変わった人だと思われるようになり、それも外から思われているだけで、変わったか、変わってないかはあずかり知らず。本人はそのまま周りを切り取っていく。