きのこ

残りの5%

2014.03.18 曇りと雨

[youtube:https://www.youtube.com/watch?v=l12Ek3e90Ok]

天才バンド / 天王寺ガール【Live at LIQUIDROOM 2013.12.10】でスタート。ほんと好き。どんなアレンジでもいつも新鮮やもん。聴き慣れる、ってないわぁ。

思い込まない。

印象と事実は違う。そうであるにもかかわらず思い込む。そして衝撃。SWITCHインタビュー 達人達(たち)▽久石譲×吉岡徳仁~考える音 感じる形 – NHK を視聴して感じたこと。

久石譲さんの言葉。前後の文脈をぶった切っているから放映時のニュアンスと異なる。

感覚をまったく信じてない。人間の感覚ほどあてにならないものはない。最後の最後は信じるんだが、過程で信じることはない。

なぜなら

同じ曲で同じテンポで(物理的に)何も変わっていないのに、こちらの感覚は毎日変化している。徹底的に自分を鍛えるしかない。どんなときでも同じテンポで弾けるようにしなければならない。

さらに

感覚だと思っていることの95%までは論理的に解明できる。ただ残りの5%はできない。残りの5%を指して感覚と言いたい。

感覚を否定しない。感覚を信じる吉岡さんに対しても、「最後は同じところをめざしている」とおっしゃっていた。

曲を作るのは、なんというか「降りてくる」的な感覚を大切にしているのかと思い込んでいた。が、違う。クラシックの譜面を研究していらっしゃって、論理的に譜面を読み(と表現してよいのかわかりませんが….)、譜面を解析する。

以前、内田樹先生のポッドキャストで耳にした話。久石譲さんはとにかくピアノの前に毎日座るという。決まった時間の訓練。そういえば村上春樹さんも早朝から書きはじめて昼前には終わると自著に書いていた。途中であっても切り上げると。

習慣と型。

內田百閒先生の同じものを毎日食べる話に通底する。SWITCHインタビュー 達人達(たち)「野村萬斎×市川猿之助」 – NHK では、型を究めるお二人に食い入った。

感覚と論理は、普遍論争になりかねない。感覚と論理について頭の中で理屈をこねたら隔靴掻痒だ。そんなことするより自分の習慣と型を見つけること。仕事だけじゃない。自分の身の回りにある。習慣と型の精度をあげる。( おれんじです。げつようびにさつえいしました。とてもきれいなおれんじです。おひさんがやまのむこうへきえていくのをながめていました。おれんじ、これからたくさんのいろにふれてくださいね。 )

琵琶湖の夕焼け

“土を喰う日々―わが精進十二ヵ月 (新潮文庫)” 水上 勉 をめくりはじめる。まぁ知らないわ知らないわ。恥ずかしい以前の無知である。ここまで知らなければ恥もへったくれもない。

言葉は感じるための道具、想像力は行動の武器。ただし時に想像力は無力でもある。;身体のいいなり (朝日文庫)” 内澤旬子 はそう教えてくれる。

見てさわって歩いて嗅ぐ。言葉で頭の中を引っ掻きまわす。いらなければ捨てる。

道すがら、畑の野菜を見かけたら、どうやったら美味いかしらとよぎる。食べる、というそのものについて顔を向けてみる。

近ごろ思うこと。