紅葉

言葉らしきものが多すぎる

2104.03.26 雨

Nikki Yanofsky – Something New でスタート。ラジオで知った。これぞカバーって感じ。一発でお気に入り。

こんなにも。

茎わかめの佃煮の砂糖の量。茎わかめに黄色のシール。半額。売れない。たぶん戸惑っているんじゃないかしら、食べ方に。私もそのひとり。

でも財布に優しいし、新鮮そうだ。ここは新鮮なものが手に入りにくい。持って帰ってキーボードを叩く。以前と同じく佃煮に。分量を確かめる。薄味で、きび砂糖、酒、醤油、どれも少なめで。

しっくりこない味。甘さがたりない。砂糖を足す。すくい取るさじの回数にガタガタカチカチ。たじろぐぐらいの回数でほどよい味。

手を動かせばわかる。ほんのすこしわかれば口にする質感がアップデートされる。びっくりするほど甘いケーキの砂糖にふるえ、しっかりしたバターの風味におののき、美味と戦慄がミックスされる。知ったかはだめだけど。

知覚の質感がアップデートされると生は艶やかだ。きれいなてかりの茎わかめみたい。

世界の中心から私をはずす。

教わったこと。空で言えてもはずしかたはわからない。はずして見える景色があるはず。

スマートフォンがSNSの主役に躍り出て、人々は「私が」の道具を手にした。時系列に並べられた「私が」は高速運動する。

あちこちで「私が」の正しさがぶつかり合う。ぶつかり合って何か生み出すよりも、それぞれの正しさを証明するために「私が」はある。SNSは手足を動かさなくても文字情報を見て「わかった」と思わせる環境を設定した。料理本を読んで「作れる」と思い込む私。

「言葉が多すぎる というより 言葉らしきものが多すぎる というより 言葉と言えるほどのものが無い」(“茨木のり子詩集 (岩波文庫)” 岩波書店)が着心地よすぎてこわいぐらいだ。自分の文字列を読み返してそう思う。言葉らしきものを並べているだけ。「私が」の単語群。世界の中心から私をはずせない。

( つくしです。はるがやってきているんです。こうえんにひっそりはえていました。おひさんがてらすとあったかそうです。いつかてにとってみてくださいね )

土筆

柿沼康二さんの言葉。

「(弘法大師を)真似て真似て自分を殺しても、違いというのは浮き彫りになる。違いを見極めるのが個性の芽生え。没個性的にもっていくことによって、嫌でも自分と真似するオリジナルとの差ができてしまう」

「同じ」と「違い」。同一性と差異の事象。

市川猿之助さんはこう。

「反逆児・革命者・猛優・異端児。反逆児になろうと思ってなる反逆児は大したことない。知らず知らずのうちに反逆児になっているのが正しい生き方」

通底している、私の中で。

はじめから「違い」を意識した行動より型を模倣して探究しつくして生まれる無意識の「違い」にユニークがある。

自分がどう見られているかの意識が「違い」を前面にもってくる。「違う」ような行いを選択させる。わざと選ぶ。不自然な選択。どう見られているかの意識が消えたとき、素直な選択が「違い」を生む。

たぶん「世界の中心から自分をはずす」こととリンクしている。そんな直感。