見える実景と見られなかった情景

2014.05.07 晴れ

天才バンド / 天王寺ガール【Live at LIQUIDROOM 2013.12.10】でスタート。何度聴いても鳥肌が立つんだから、一回性のライヴで見たら瞬きしたくないよね。

中身がない。

年を繰るたび自分には中身がないと認める。ゆっくり受け入れる。さりとて卑下も自慢の中にはなりたくないから自分を蔑まない。冷静に才を見定める。

いつからかと振り返れば、ものをつくっていらっしゃる方々の映像や文章を目にするようになってから。目にする機会を増やしたら感じはじめた。一つのものづくりをずっと続ける方から零れる一言は思想の海。

最初はうらやましかった。なのに自らものをつくらない。うらやましいのに何もしない、矛盾。恥ずかしかった。

それから少し変わった。うらやましいは薄くなって、どうしてだろうが濃くなった。零れた一言は沁み入る。平たい言葉の組み合わせが、かえって深遠である。そこが哲人の書いたものとの違い。どうしてだろう。

哲人の言葉を覚えても、エスプリを利かしたい欲求を満たすために使う。ものづくりの表面張力から垂れた一滴は、血液にかわってずっとずっと身体の中を巡り続ける。ごはんのとき、歩いているとき、電車で移動しているとき、常に全身に薄い膜をはった一言が前景化される。ひょっとしてこういうことなのかしら、と暮らしのなかで見つかる意味や意図。発見。

19:00からF先生とミーティング。その前に大阪駅周辺で所用をすませる。歩き回る。終業の時刻。地下は馴染みの風景。駅へ向かう人々の列。夕刻の地下独特の小景。それの一部になった自分と、一枚の絵画を眺めるみたいに自分を見る私がいる。家路に向かわない焦燥感、レールからはずれた座標軸の実感。

はずれて見える実景と見られなかった情景。そこに「絶対」がある。一つの時間のなかに二つの異なる座標軸を同時に経験できない。

絶対への挑戦が人間の空想であり、平行世界を生む。

( つつじです。いろあざやかで、うすいはなびらがかぜにゆらゆらゆれます。じっとみているとむしがとんできてみつをすっていますよ。 )

つつじ

年を繰り、なにも残していない実感がせまってくる。ものを残していなくてもと抗う。

ものではないとわかってくる。骨格。いままでやってきた骨格みたいな背骨とででも言ったよいか、そういった煉瓦を積むような堅牢な礎を築いてなかったんだ。それが中身がない、ということ。

もう少し書きたいけどまずはここまで。