格子

命を切らしてもらってるからね

2013.05.22 曇り時々晴れ

New Days – FreeTEMPO でスタート。毎日が新しい日。だけどそんなふうに感じられるって満ち足りすぎてない? 日々の色艶がアンバーになりそうで(あっ、アンバーは好きだけど)、だから毎日は新しい日、わかってる、わかってるんだからそのなかでとっておきの新しい日をしっかり感じよ、ぐらいが私にはちょうどいい。とっておきのなかには良くも悪くもあってね。

結果を知ることはない。

水曜日、吉野杉を見学した。今度の仕事の取材。山守の方が山を案内してくださった。林道の入口に停車して歩く。気温と空気が一変した。直径1m、いや1m50cm、わからない、太い幹の立派な杉が佇む。間には細い木々が真上にまっすぐのびている。どれも真上に。吉野杉の特徴だという。

「これでどれぐらいですか?」とたずねたら「100年、150年ぐらいかな」と山守の方はさらっと笑って答えてくださった。

「自分が植えた木がどうなるかは次の世代やからね」と、太字も斜体も下線もゴシックでもない、なにも強調していないフォントで書いたようにおっしゃる。あまりにふつうで聞き逃したかもしれない不安。植林したご本人が結果を知れない世界。

約500年前からはじまった吉野の林業。

こっちは近所のコンビニへ往復5分か10分、そこらで物を買える。画面のボタンを押したらサイトの更新が瞬時に反映される。メールの返信が遅れたら催促されて、いまやメールは待ちきれないからLINEやFacebookのメッセージ。まるで常に誰かの頭の中に”私の用件”をピン留めしなくちゃいけないような世界の感覚。

時間軸がまったく違う。

山守の方は7代目。ご実家の跡地へむかう。昭和30年ごろまで住まわれていた。30軒ほどの集落。たどりついた場所は、リアルなもののけ姫だった。空が近い。こだま(木霊)がいてもおどろかない。

草の緑が異様に鮮やかで名前がわからなくてくやしい、地団駄。そう、たしかに視角から草木を消したら平地がところどころにみえる。高い木々に囲まれた斜面に点在する平地。石垣をつかって平地にして家屋を建てたんだ、たぶん。かまどもあった。

「松尾芭蕉は飛鳥からここを通って吉野へ入ったんやろうね」とまた例のさらっとおっしゃるから、侍が馬に乗って現れたらあいさつしてしまいそう。もう堪忍してほしいぐらいの「さらっ」となお話し。

「ここからさっき通り過ぎた学校へ行ってたよ」って、その「さっき」はいつごろですか、と心中でぐい飲みした。毎日が登山。

( ばらです。ばらやつばきやどうしてこんなにもいくえにはなびらをかさねるんだろうっておもいます。そういうことがふしぎにおもうようになりました。みどりのばらがあるのをはじめてしりました。いろやかたち、これからうんとたくさんふれてください。 )

薔薇

昼過ぎに散歩へ。神社へお願いに参る。自分のことではない。道すがら椿(と思う)が一つだけ咲いていた。のこりはすべて茶に変わっていたが、それだけひとつ。ちゃんと気づいた自分を自画自賛しつつ見惚れる。それぞれがそれぞれに独りとして互いを慮って立ち現れる。人間にはそれができない。どうしてだろう。

木漏れ日の参道をぬけてお参り。道々、木への見方が変わりつつ。

山守の方々がおっしゃっていたこと。

「日本の山はおもしろい。どれも同じやない。それぞれ違います」

吉野杉に誇りを持っていらっしゃるだけでなく、山そのものへの敬意と畏怖を感じとった。訪れた山々の話もすこしだけ耳にできた。

そしてもっとも強く残った言葉。

「命を切らしてもらってるからね」

散歩の質感をアップデートしてくださってとてもうれしい。