琵琶湖の夕焼け

私の身体の味覚は阿呆

2014.05.31 晴れ

風味堂 – ゆらゆら でスタート。多和田えみさんのカバーバージョンも好きですがオリジナルで。ゆらゆらしたい。してるのにしてる感じがしない。自由になりたい。なっているのになっている感じがしない。捨てたい。捨てているのに捨てている感じがしない。一切は自分のなかにあるのに中に感じられない。

遠ざかる。

何度も書いてきたからまたかと思う。でも気になる。いつからだろう。「安全食材」と書くようになったのは。「安全食材」だから安全なわけないのに。言葉の暴力。「安全」としてか書いていない表記がまれにある。腰がぬけそう。

まるで「本質」という単語を使えば本質を洞察しているかのようで、本質は遠ざかっていくのに。「それはコミュニケーションの問題だ」と言えば問題の原因を特定できたような幻想。

「安心です」と言われたら私は不安。安全だと言われるほど不信を抱く。スーパーの売り場で見かけた表記みたい。「コピーを入力してください」のまま貼りだされたらしい。

めかぶ・もずくの広告

これはいろんなものにあてはまりそう。「コピーを入力してください」に「安心」「安全」と入力すれば安心、安全なんだ。買う側は無意味な装飾に気づいている。あるのとないのとでは、「ある」ほうに手が勝手にのびるぐらいの役割を果たす。

ひょっとしたら免罪符の記号かな。販売者は安心や安全を入力したら責任を果たした、みたいな意味の濃淡や願望が込められてるのかしら。安全と安心を広告に使うようになった文脈を調べてみたい。どうやって調べたらよいかがまだわからない。

「国産」にも同じ違和感。

外国の方が手間をかけてつくってくださった物でも食べたい。エネルギー消費がちらりよぎつつ。だけど事情がある。長距離の流通に耐えられるように設計しなけれならなかったり、見た目を気にする消費者のためにきれいにしなくちゃいけない。そうやって耐性の品質は向上する。たぶんなにかを代償にしている。

「安心」「安全」「国産」も頭の味覚。からだの味覚ではない。どんなものでおいしいと感られること。自分の味覚と嗅覚を信じられるために感覚を養う。

好きな場所で自分でつくったおにぎりを一つほおばる。すべて外国産のおにぎり。それもおいしい。大切な人と食べるものは、なんでもおいしいという方もいらっしゃはず。それで充分。

頭の味覚を刺激する単語を反応から削除する。

( さくらんぼです。あざやかなあかいろです。いただきものでした。ちょっとだけすっぱくて、なかにたねがあります。すっぱいものってもうめしあがりになりましたか。まだかな。 )

さくらんぼ

単純な頭でよかったのやらわるかったのやら。

一月ほど前、酒屋さんで外国製ビールを買おうとした。1本だけ飲みたかった。売っていたのは6本パック。だめもとで店長さんにたずねた。「ぜんぜん大丈夫ですよ」と威勢のいい返事をいただけた。店長さんはパックから1本取り出しながらおっしゃった。

「コレ、むこうではビールなんですよ。日本では法律上リキュール扱いなんですけどね」

先日、類似の話を聞いた。二人組が列車内で某大手飲料メーカーから耳にしたエピソードを開陳していた。こっちがはらはらするぐらいの大きな声。詳細は割愛。発泡酒を飲むなら「アレ」を飲むそうで、自社製品だが「アレ」が一番うまいとの由。

理由は自社製品だからだけではないらしい。「法律上は発泡酒」だから。製造方法やら内部事情を大声で話していた。

耳をエレファント並みに大きくしたはしたない私の脳は、爾来、「法律上は発泡酒」を刷り込まれてしまい、おいしく飲めるようになった。

私の身体の味覚は阿呆で頭の味覚は狡知である。