琵琶湖 Lake Biwa

眉唾語とのいたちごっこ

2014.06.03 薄曇り

ハンバート ハンバート “ぼくのお日さま” でスタート。気持ちを素直に表そうとしたらよどむ。よどみなく話せるなんて、もっと年とってからでよいよ。もうこれ以上なにもしたくなくなったときによどみなく話せたらぐらいで。

呪縛。

MacのLINEがバウンドする。通知。ウェブサイトのテキストをみてほしいとの相談。不意をつかれた。彼女はたしか写真撮影だけのはず。いつのまにかテキストにコミットメントしていらっしゃったらしい。ディスプレイに表示されたテキストを読む。即興で編集する。

コピーの一部に「つなぐ」を使った。否、使ってしまった。プライベートの文章では使わない。

言葉を封印する。特定の単語を使わない。現象を記述したかのように思い違いするから。「コミュニケーション」はその先端。「つなぐ」もその一つ。こういう単語を「眉唾語」と私は勝手によんでいる。もし使ってしまったら架空の時計の針をもどす。省みる。なぜ使ったか。

次は意味を理解していない単語に目を配る。使うなら慎重に扱う。辞書をひいたり用法を調べる。

単語を使えなくする。わずらしい。もどかしい。けれど呪縛がひらめきをもたらす。「コミュニケーションという単語を使わずにコミュニケーションの様態を記述する」ひらめきがやってくる。NHK【ETV特集】辞書を編む人たちで、プロの仕事ぶりに圧倒された。志村ふくみ先生の番組とあわせていまも視聴している。このなかで「語釈」のシーンが何度も登場した。

(プロの仕事をたとえにしたら失礼千万だけど)眉唾語を使わず書くことは、自分なりの語釈かもしれない。

「つなぐ」「つながり」「つながる」と書く。立ち止まる。「つながり」と書いたら「つながっている」感が表れてしまいそうでこわい。書くのは「つながり」に到るまでのいきさつである。行動と思考。その過程を「つながり」と短く表現する。言葉の暴力性。

書店の平積みは眉唾語の宝庫。いままで使っていた単語が、眉唾語にだしぬけにリストされる。あの瞬間はつらい。「うわぁ、これもしばらく使えないか」とうめく。最近では「伝える力」をみたとき参った。なにも話せなくなりそう。

( ひこうきです。おおきいですよ。そらをとびます。ものすごいはやくはしってじめんからじゃんぷします。とてもおおきいおとです。 )

伊丹空港

PCのようにCPUとメモリをアップグレードできたら読書の理解は深まるかなって妄想の期待をよせる。人間には聞こえない音域や見えない色を入力できたら、世界は変わるのかとか。

そんなこと妄想しなくても摂理を発見した方はいらっしゃる。ひとり”命”の庭に遊ぶ ~画家・熊谷守一の世界~|NHK 日曜美術館で紹介されたエピソード。

蟻を観察していた。二年間、毎日毎日、ずぅっと。そしたら蟻は必ず二本目の左足から歩き出すことを発見したという話。曰く、「例外はない」と。帰納的推論であるから生態として正しい事実かどうかは調べてみなければならない。でも、そういうことだなぁってうなづいた。

時間をショートカットしようとする邪心を押し返そう。ひとつだけでよい、ひとつだけ自分にとっての摂理を発見したいな。堀尾貞治さんは

表現に意味を求めず形も求めない
生きることには本来意味がないという考えを美術を続けるなかで磨き上げてきた

ドキュメンタリー映像’14

とナレーションをつけられていたけど、もし、意味を問われたら、摂理の発見って答えたい気持ちがちょっとずつじわりじわりにじみ出てきたみたい。