孤独の思考が生んだ固有種

2014.08.07 晴れ

前川清 – ひまわり でスタート。TVをつけたら前川清さんが塩釜市の桂島を訪れていらした。海を背景に砂浜でこの曲を歌っていた。じっと見つめている島の方々の姿に見入った。なかには口ずさんでいらっしゃる方も。

目が覚めてカーテンを開ける。物体の陰影。日の出の時刻が5時をすぎた。温度と湿度は夏の最中であるけれど、秋の入口はだるまさんがころんだようにやってきている。

道徳の規範は時代と並走して進化すると思っている。過去から学ぶとき、時代が美化された文章を疑う。たとえば江戸時代はエコロジカル、な礼讃を目にしたら反論の文献を読む。実体以上に美しく言いあらわしたい気持ちは理解する。質素と貧困は異なる。現代の動画から過去の静止画を切り取ってきた懐古は、事実をゆがめる。

古き良き風習をとりあげるのに現代の感覚からしたら未開の習慣には目をつぶるようなことはしたくない。そして現代も未来によって未開に変換される。

22世紀になれば「誰々が結婚した。妊娠はしていない」という報道は下品だと批判され、いま当然のように報道されている内容も「野蛮な時代がかつてあった」と評価が下されるかもしれない。

自殺予防 メディア関係者のための手引きのとおり報道される世の中がいつかやってきてほしい。

目まぐるしくかわるニュース。扇情的に書き立てられるできごと。文字に麻痺している。一年の終わりに亡くなった著名人たちが映し出されて、「今年か?!」とポリグラフに一瞬の山がうまれ、時間のひずみが現れて消える。

有限の時間を感じて、何かを無限に熟思する。何かを見つけるから始めなければならない。たいていは時間を費やす行為に追いかけられる。何かを見つける前に、無限の熟思は時間の容器のなかで溶けてしまう。

何かを見つけること。悠久の道程。

( じんじゃです。なんどかしょうかいしているかもしれませんね。さんぽでたちよったとき、どうしていますかとおいのりしています。いちねんがすぎました。あなたはわたしにといをあたえてくれました。ありがとうございます。 )

近江神宮

(ご本人は認めないかもしれないけれど)写真家の方から冊子制作を手伝ってほしいと依頼された。私はDTPの制作経験なし。IllustratorやPhotoshopはサイト制作で使うが、それもほんの一部の機能だけ。まったくわからないって返信も、友人からはオンラインサービスを利用するとの由。結局、文章を引き受けた。友人は写真を担当する。短い文である。が、予想どおり身もだえる。

彼女しか撮れない光と影、写真が大好きだ。世界の見方。

綴られた文章や会話の単語には、孤独の思考が生んだ固有種がある。なぜそれが固有種だと言えるのかと問われたら、ロジカルに答えられないけれど、白鳥の集団に佇む黒鳥のような存在感を放っている。

撮影方法を質問したことはない。「どうしてそんなふうに見えるの?」は何回もたずねたい。でもそれを質問しても、あまり意味はなさそうだ。操作を模倣できても、発想のひらめきは真似できない。

引き受けてから紙媒体を手にとったときに見るポイントはかわった。以前から写真や文字、色に多少目を配っていた。それらから関心は、表記や配置、質、編集へとうつった。

数行書くのに半日かかったり、イメージからはいったら何日費やしているかと思う。

視点、主題、文体、単語の選択、漢字と平仮名の配分、表現する内容などなど。オンラインサービスにはフォントや色の制限がある。そのなかでのこのじたばた。もし制限の範囲が広がっていたらとこめかみの痛み、尻の濡れ、体から発せられるへんな匂い。ぞっとするわ。