光と影
diary

迷いの地層

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Fishmans – あの娘がねむってる でスタート。目の前に映る人の年齢よりも自分がいつのまにか追いこしているとき、あの言い表せない感覚の発露。時がとまっているのはむこうかこちらか。時の精神は非同期だね。

ネットワークの設定で大阪へ向かう。車中の光景は夏休み。大阪駅で階段を降りる人々の速度が同期しない。キャリーバッグを持った人々がいたり、子供たちがいる。2,3歳ぐらいかしら、父親の右手と母親の左手を持って、ゆっくりゆっくり降りていたり。微笑ましい。スマートフォン人の速度より遅くても気にならない。

大阪駅ならここと決めているコンビニに立ち寄る。商業ビルの地下にあり、テナントのシャッタは降ろされている。お盆だな。お盆は旧暦から月遅れが全国的な風習だが、東京は新暦に置き換え、沖縄は旧盆。

「古くから」といわれる風習のなかには、「日本古来」や「むかしの日本」と喧伝して、あたかも重きを成す伝統や慣習のように利用される。時間的な幅の感じ方は人それぞれだから、起源が100年、200年前でも「古く」からいってもおかしくない。

ただ、それより以前は反対に近い行為があったかもしれないし、起源そのものが後付けだってあり得る。後の治政者が、その時代の都合にあわせて編集した起源はあると思う。

だから自分の主張と整合性がとれるからというだけで、体よく利用しているような「古くから」は、できるだけフィルタリングするように心がける。

シリーズ遷宮 第2回 出雲大社 ~オオクニヌシの謎~で古事記を読み解きながら出雲大社の起源と千家家を紹介していた。まことの佇まいは他を威圧せず、他から利用されず、他から適度な距離感と親近感を抱かれるんだなぁって感じた。人・物・事問わず、「古い」それ自体を誇示しない。

もし時間を一本の直線にたとえられるなら、出雲大社の時空に関わるあらゆる個は、我利の個を抑制し、直線の始原から引き継ぎ未来へ渡していく、時の質量に同化しているような存在感を持っていた。苦心や重圧があったとして、それは私の想像の埒外。その埒外を静かにかしこまって敬う。

( べんちです。ごがつのまつにとったしゃしんです。こちらはおひさまがあるじかんがすくないです。へんななつです。かわのみずがまったくなくなって、あゆ(さかなです)がとれなくてこまっていたら、たいふうのせいでかわのみずがあふれてしまって。あゆはいままでいちばんたくさんとれたんですけどね。 )

bench

決める。

未知のことに対する最適な判断は不可知だと思う。過去に経験しても困難な決断がある。

自身のことで何かを決めるときに悩む。ましてや誰かと関わって決めるなら、悩んでも仕方ない。独断できないことはある。でも、何かを決めなければならない。そのとき、「私は何を決めるか?」を自分で判断する。その判断ができなかったりする。

判断を誰かに委ねる。

誰かが判断して行為が決まり、事態が進展する。ただし、「私が判断した行為ではない」と自覚できるだろうか?

判断するまでには、判断に到る迷いが積み重なる。迷いの堆積。迷いの堆積が地層になって高くなる。高くなるほどよりよき結果へ導き出す礎になるんだと思う。高くなっても迷う。迷いの堆積の高さは、判断してきたことの証。成否は問われるが、判断しなかった悔やみはない。

迷えるとしたら安定しているからだ。生存が危うい状況では迷えない。不安だから迷うより安定しているから迷える。そう理解できたら迷いは直感を友達に迎える。

「決める」ことの快感を覚えて耽ったとき、判断は他者を厳しく裁き、破壊する。「優柔」が決断力の乏しさを言いあらわす。なのに「優しくて柔らかい」って褒められるような印象を与える漢字が使われている。妙だね。

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