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顔が見えないから美しいとしたら残酷だろうか

https://www.youtube.com/watch?v=lCnJujje-pM

The Miceteeth – 素晴らしい日々 でスタート。再結成されたようでとてもうれしいニュース。

写真家の方と冊子を共同制作している。はじめての試み。迷子になりそうだ。文章を引き受けているが、写真と言葉の距離感がとても難しい。うっとりと見惚れる写真がすべて。言葉はミニマムで、いらいないくらい。フレーズをメモして、まずは書きたいだけ書く。しばらく寝かせて削る、削る、削ぐ。

打ち合わせでたまに私が撮影される。写真家の方の気まぐれがレンズを発注者からこっちへ向ける。それを察知した瞬間、肉体が化粧する。撮られていると感じたら肉体が反応するあの感覚。

レンズを向けられる1秒前の自分と、1秒後の自分の肉体は同じであるのに意識は変質する。それも少し経てば忘れる。まるでポリグラフに現れた一瞬の山みたいな跡。

送られてきた写真には自分の顔。誰でもない自分なのに誰かが写っている。私と他者の緩衝地帯。ひょっとしたら化粧ってこんな感じ? 多くは白黒である。モノクロームは、抽象的な言葉みたいだ。

カラーでよみがえる第一次世界大戦 第1回 人間性の喪失|BS世界のドキュメンタリーの一部を見たとき、現実性が圧倒的だった。映像はいまそこかしこで起きている戦争と同列である。NHKスペシャル|狂気の戦場 ペリリュー~”忘れられた島”の記録~も強烈だった。アメリカの軍人が記録用としてカラーフィルムで撮影した映像は、モノクロームの記録とは一線を画する。同質ではない。戦車が人を殺し、火炎放射が人を黒焦げに焼き尽くし、怪我を負った人の鮮血には色、海へ逃げた兵士が情け容赦なく撃たれて死ぬ瞬間、捨てられた遺体が「ある」ことを映す。

モノクロームは色の情報を失うことによって形が浮き彫りになる。喪失した色とひきかえに想像の領域がふえる。画面に映し出された私の相貌は影に置き換えられていた。影の濃淡は輪郭を浮き彫りにして形が現れる。この顔が自分でないと仮定したら、どんな風貌かを想像させる。

顔。私は相手の顔を確かめながら自分の表情を思い浮かべる。常に立ち遅れてくる私の表情。

富山のおわら風の盆では、町流しの踊り手は編み笠を深くかぶる。顔が見えない。観客は「踊っている姿」だけを視認する。姿形がみな揃っているから幽雅で妖艶なんだという。観光した人に伺った話である。顔が見えないゆえ感じる美。

( ぶどうです。きょほうといいます。いろのいいかたがむずかしいですね、くろむさらきといいましょうか。とってもあまいです。わたしにはぜいたくなくだものですが、ことしのなつにいっかいだけおもいきってかいました。 )

ぶどう

車内で隣に座った女子大生を撮影して逮捕された記事に目を通して、「シャッターを切らなくても捕まります」との説明が気になった。スナップ写真はさらに撮影しにくく、それとは裏腹に「絶対非演出の絶対スナップ」の芸術性が高まりそう。

「ほら、こんなふうに街中を歩いている人を撮影できた時代があったんだよ」「えー、こなんふうに人を撮ってよかったの?」と交わされるんだろうか、いつか。

スナップ写真の「撮られる側」と「撮る側」の溝は、いまにはじまったことではないだろうし、インターネットが現れる前からあったと思う。ただ、インターネットとスマートフォンの出現が溝を深めている。誰でも「撮られる側」と「撮る側」に転化できるようになった。撮られるときは警戒しても、撮るときは配慮に欠けていることもあるだろう。

ある殺人事件があった。犯人は被害者(女性)を撮影した動画や写真をネットに投稿した。一瞬で感染していった。性交中の動画や全裸の写真。「一瞬」で感染する恐怖感はいまも残っている。