彼岸花

耳の痛い事を言ってくれるお方がおられるうちが花でございます

2014.09.29 晴れ

ハンバートハンバート – おなじ話 でスタート。意味深な歌詞。なんどもなんども聴く。「おなじ話」ができること、したくなること、ともにわかちあえること。まったく「おなじ話」はないあいまいさ。

四季はめぐるけれど2014年の秋は一回きりで、金木犀の香りが逆戻りできない秋を運んできた。むうっとするような暑さは、からりとした空にかわる。朝夕は過ごしやすくなった。昼間は依然暑い。紫外線が強そうだ。

日曜日は祖父の33回忌、祖母の17回忌法要だった。みな老いてきた。顔を合わせて口にすることといえば、いっしょに聞いていた弟と見合わせて笑ってしまうお話ばかり。自分も少しずつああなっていくんだろうと勉強になった。そして歳を重ねると昔話の分量が増えるのも摂理なんだろう。「時間」だ。

供養を終えてお坊さんが「一寸先は闇」について話された。その話を聞きながら脳裏によぎった、帰りに京都へ立ち寄ってMacを買おうかしらと。一瞬でもよぎったんだから薄情者というか、お坊さんと先祖へ失礼甚だしいと申すか、とにかく浮かんだのだから人間の強欲とは空恐ろしい。

「一寸先は闇」のできごとが、毎日起きている。それが万人の目にふれるかふれないかの違いはあるけれど、関係している方々にとっては真であり、報じられた一片を目にした私はどうやすれば我が事に近づけられるか問いを探す。

My third story is about death. When I was 17 I read a quote that went something like “If you live each day as if it was your last, someday you’ll most certainly be right.” It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself, “If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?” And whenever the answer has been “no” for too many days in a row, I know I need to change something. Remembering that I’ll be dead soon is the most important thing I’ve ever encountered to help me make the big choices in life, because almost everything–all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure–these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose. You are already naked. There is no reason not to follow your heart.

—– Steve Jobs’ 2005 Stanford Commencement Address

「一寸先は闇」といえば身も蓋もないなら、ポジティブ(使いたくない単語の一つ)な表現に置き換えるとしたら、この一節が浮かんだ。

近ごろ思う。箴言の意味を考えても、よい問いは浮かばない。まるで孤独の意味を問うために書物を読んで大勢の人々と意見を交わすようなシュール。箴言の意味を問う作業は、辞書を引くときの落とし穴と似ている。ひとつの単語の意味を調べる。解説の文章を読む。単語と単語でつながれた文章のニュアンスは伝わってくる。でも細部の意味を理解できない。今度は解説文の単語の意味を調べる。ループ。

全体を俯瞰できない。迷路を上空から見れば入口と出口を識別できるけれど、中に入れば、自分はどこにいるのかわからない。ひとつの単語の意味を調べるために出発した旅には、最初の地点に戻ってこれない「意味の大海」が待っている。

意味の大海を泳ぐことが、言葉を知る醍醐味だと思う。ひとつの単語を調べて次の単語へハイパーリンクさせて、意味の体系を自分で作っていく。辞書の意味から自分の意味へ置き換える。

言葉の言葉による言葉のための意味は、頭のなかでできる作業だ。でも頭の作業では箴言の意味を考えられない。お坊さんのお話やジョブスのスピーチの意味を考えても自分を了解させる道理を詰めない。まるでそれらを歩きながら考えて事故に遭遇して死ぬみたいな皮肉である。

ときには意味を考えない。

高度に安定した環境は不安定を排除したくなる、「先」を錯覚させてくれる。違うかな、「先」を描くように迫ってくる。言葉が溢れる、もしくは言葉に共感する人々が増える。環境が安定したから溢れ増えるのか、言語の発達が環境を安定させようとするのか知らない。自分の体感レベルを文章にしたらこうなる。

動くが前景に、言葉は背景にしよう。あるいは動くのレイヤが最前面にきて、言葉のレイヤを最背面に移動させるコマンドを私の身体に実行する。