室堂からの雲海
diary

頭の上にイクスラメーションが3本立った

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Nujabes – Sea of Cloud でスタート。Nujabes ばっかりの日々。しばらく離れていたけどまたもどってきた。で、Metaphorical Music と Modal Soul の二枚をぐるぐる。たまに Spiritual State へ。失って、存在を刻む。幅も長さも深さも人それぞれだけど、消えることなく千言万語の模様が浮き沈む。

マッサンの録画を視聴しはじめる。とたんに余市の情景を目におさめたくなる。北海道は未踏の地。広大な畑やまっすぐな道を訪れたい。暮らしの差異をながめてみたい。定番の観光地への欲求は薄い。今年の春ごろ(だったはず)、朱鞠内湖の特集をNHKで放映していた。体感を想像できない暮らしとこちらでは見られない自然の光景があった。

夜になれば冷気(?!)が湖にむかって流れていく。理科で習っていても覚えていないからその現象を実験で再現できるかどうか知らないけれど、無性にライブで見たくなった。無理かなぁ、寒いどころやないな、未体験の温度に身体はどんな悲鳴をあげるんだろう。

自然というラベルを貼りたがる。近くに琵琶湖や比叡山がある。なのにそれらを生活の一部のように自分の意識は思い込む。近所のスーパと同一の系として認識しかねない。自然といえば人があまり住んでいない遠くの場所へ行かなければならないと錯覚している。さらに「自然」となれば特別扱いである。

自分の感覚こそもっともあてにならない。

なんの演出も一切ない無音の時間を過ごした。街中ではない。誰かがつくった人工物の中ではない。シャッタ音だけが聞こえた。無音の時間は続かない。無風であるのも幸いして数分の偶然を過ごした。偶然がもたらした産物のなかで立ち止まりレンズをのぞく。なにかヘン、おかしい。数秒して頭の上にイクスラメーションが3本立った。音がない。

「音がない」を知覚するまで数秒かかった自分にぐらついた。はじめての体験に静かに高まる。高鳴りが吐く息の音さえ漏らしたくない。独り言も憚れる無音。その世界の感覚を覚えた。

そういえばアメリカのドラマの台詞にあったな、「誰もいない森の中で木の枝が折れたときその音は実在するか?」と。正確ではないにしろその台詞をあとから思い出した。

むかしから人間はそんなことを考えなければ時間をもてあます動物なんだ、たぶんきっと。

考えると想像するの境目はあるのかしら。実物を目にして手にふれ、匂いをかがなければ、想像できないわけではないのに、実物へアクセスできたら言葉の不安感は逓減して、映像の輪郭はくっきり。

頭の居間には、想像する、が先客としてくつろいでいる。居間へ入ったり出たりして身体が実物と交わるのを待っている。実物が頭の居間に闖入してくれば、考える、は退席して、想像する、がゲストに招かれる。

考える、の表面に補助線を引けば、想像する、の陣地が現れるかと思いきやそうでもなさそう。考える、は想像する、の面積より広いと考えていたつもりなのに、考える、の仕方を会得しなければ、頭の居間にいる、考える、は知らない間にはいっていた買い物袋に入っていたコンビニの割り箸みたい。いつか使うだろうと思って引き出しへしまうも、いつからそこにいたのか思い出せなほど何もしていない。

もうすでにはじまっている。数年も経過しないうちにグラスを装着したら脳はだまされる。それは実物か想像か。

頭の居間にいる、考える、はあわてて退席する様子がいまから想像できて笑ってしまう。

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