逆光
diary

スイッチオン

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365日、決まった時間に同じ場所の光と影を観察したら何がわかるだろう? 一年間に読む本の情報より多くを知るかもしれないし、何も得られないかもしれない。光と影は太陽の指示のもと自然の舞台を演出する。その寸劇を見る方の能力が測られる。

いつだったか、日が山へ沈んでいく様を撮影していて、「違う!」と叫んだ。沈んでいくポイントが違った。

毎日ではないけれど、ほとんど同じ時間に同じ場所を撮影していたから視認した。直近の記憶のポイントと目の前で太陽が沈んでいくポイントがずれている。

季節の遷移。人の心より完璧に確実な事実を前にして、記憶していた稜線の「あの」ポイントに沈むはずなのに、という違和感。小学校か中学校の理科で教えてもらったはずだ。なのにいたく驚いた。

学習のスイッチがオンになった自覚。でも違うという現象を確認したのに、仕組みを知らないから誰かに違う理由を説明できない。

そしてオンを持続しない。すぐにオフに切り替わり関心は脈略なく目移りする。感性は凡庸のまま、知識は更新されない。

非凡な人の一部に触れたとき、学習のスイッチがずっとオンになっている雰囲気を感じとる。自分が関心を抱く方向へまっしぐらに進んでいる。

疑問、オフはないの?

何をさして非凡というか人それぞれだろう。学習のスイッチをずっとオンにできるとしたら(時々オフも含めて)、それが非凡だと私は思う。誰に教わったわけでもないのに手足が左右交互に動いて歩くことに違和感がないのと似ている。学びは習慣になって、無意識の方へ格納されている。

余談。本当か嘘か知らないが、昔の人は手足が左右交互に動かなかったという。右足と右手、左足と左手だったそうだ。ほんとうか? 生活環境が変容させたとしたら、これは学習のスイッチがオンになったからか、無意識の運動か。

疑問、いままっすぐ突き進んで勉強したい?

写真。でも逃げ腰。目は機材やレンズへ向かう。根本は何を撮りたいかでしょう、テーマが先だろうと戒めても、頭が頷くだけ。マウスを動かす手は、機材を渡り歩いて読み耽る。逃げ腰が解決されるなら脳の仕組みを変えてみたい。

遠い未来。髪の毛よりも細い器具を脳に侵襲させて、肉眼では見えない部位を刺激すれば、カメラの機材に目を向けなくて、撮ることをひたすら学ぶスイッチがオンされるとしたら、恐怖を感じるか、興奮するか、どちらなんだ。

日常を学ぶのも一つの才能だと思う。生活そのものに疑問を抱き、その中から一つの事象を体系立てて学習している方はユニークだ。

たとえば食。食は知と態を露呈する。テレビのスイッチをオンにしたら、オフにしたくなる番組表に列をなす食。ご覧になっている方もいらっしゃるとはいえ、自分からはかけ離れた基準が映し出されている。

喜怒哀楽はなく奇妙な感覚。これだけ食にまつわる番組があり、食に執着しているのに、なぜ次から次へと食は捨てられるのか? 反対かな。番組や情報誌、ネットなどが食をもてはやして食文化は進化した。その進化の速度に食べる側が追いつけず、食材や完成品や残飯が廃棄される。1年間に廃棄される量を何かで目にした。いずれ忘れると気軽に構えていられず、アメリカと合わせると、どこどうすればそんな量が廃棄されるのか、もう別の地球で起きている話と錯覚しそう。まるで全員が正しいことをやっているのに、出てきた結果はすべて間違っていたみたいな誤謬推理。

多様な食文化は歓迎したい。でもそれと引き替えに心構えが卑しくなるならお断りしたい。番組のごはんよりインスタント食品を自分でアレンジして美味しそうに食べる人、そちらのスタイルや志向に惹かれる。

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