ひまわり
diary

今の「自分」は昔から存在したのか?

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真心ブラザーズ – 朝が来た でスタート。Eテレの0655のファンになってお気に入り。原曲は Bob Marley – Soul Captive です。歌詞を聴いているとちょっとだけやるぞぉって気になります、ちょっとだけです。

今の「自分」は、昔からいまのようになったわけではない。この事実を認識していない。

歳をとるにつれ、思考の回転数は落ち、視野は狭く、発想が窮屈になる。にもかかわらず、常識や行儀は一定の水準に達していると自己評価する。一定の水準とは平均値より上のようだ。

二つの経験値が自己認識をゆがめる。

一つは生活の経験値。歳をとれば経験値を獲得できる。公私を通じて他人の顔を合わせ、他人の意見やメディアの情報を見聞きする。経験値は自然に蓄積される。その中から試行錯誤を経て知恵が育まれたと思うし、老人が少なかった時代だとそれらの経験値は重宝されたと想像する。

もう一つは仕事の経験値。コンビニやスーパで見かける風景。年配の人が店員さんへ敬語も使わず、自分の部下に指示するような物言いで何かしゃべっている。失礼極まりない。会社の関係性を社会に持ち込んでも平然としていられる精神が未熟であるが、年配であるというだけで偉いと思っている節がある。

この二つの経験値が、あたかもはじめから私はいまの「自分」になったと誤解させる。

そして若い方々たちの所作に苦言を呈する。

若い方々が年上から叩かれている様子に遭遇する。Twitterという特殊な環境での観測だから一般化できないが、叩き方には目に余る。叩く方は集団だ。叩かれる若者のBIOやtweetから察するに10代か20代。いつも疑問がよぎる。

叩いている人(たち)は、10代からそんなに「よくできた」人なんだろうか、と。

いつぞやバイトでの不祥事が群発した。悪ふざけが過ぎた不祥事を企業が謝罪するシーンが報じられた。バイトテロなんて呼ばれ、物騒な名称をつけるなと思っていた。ああいう類は若気の至りですまされない。然るべき人が諭せばよい。

今の40代から上はインターネットを知らなかった。もし10代、20代の自分が現在の環境にいたら、と一度はシミュレーションしているだろう。 スマートフォンがあり、TwitterやFacebook、LINEなどのアプリが自分の時間を細切れに寸断し、KSのプレッシャに追われる。やるなと注意されても、誘惑を断れるだろうか?

インターネットは世界中に公開されるという知識より、SNSでの交流だけがネットだと思い込んでいるような感覚を見受ける若者たちと、インターネットがなかった時代を経て「公開される」怖さを肌で感じられる世代とに逕庭はある。

一方でたかだが10年20年で人の認識能力は激変しないと考えるが、LINEで告白して別れるなんて聞いたら、「スクリーンショットが公開されたらどうするんだろう?」と余計なお世話を言いたくなるし、性交を写真で撮るなんて狂気の沙汰と断じてしまうし、ほかにも口を挟みたくなる現象を目にする(これが歳をとったということだろう)。

ただこういう視点は公正に欠けている。

同世代や上の世代でも似た現象は起きている。好きな写真家の更新を見たくて、Facebookへアクセスする。タイムラインに流れてくる友達の記事。めったに見ないし読まない。たまたま目にしたとき、仕事のお客さんとの出来事が名前を伏せて書いてあった。あるいはプライベートなことも流れてくる。他人が何を書こうが私には制御できないから、何かの感情を発露させること自体が不毛だと自戒してページから離れる。

ここでお客さんとの出来事を具体的に書かなくなった。過去の記事を読み返して、自分の視点や発想が卑しく映ったからだ。それ以来、書くならなるべく抽象化しようと決めた。

今の「自分」は、昔からいまのようになったわけではないではない。

あげつらう能力を進化させるより、過去の自分の恥部をふりかえって過去の自分と現在の自分を対話させたい。

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