枯れた葉

意味は一周してもどってくるけれどいつかわからない

2014.12.23 晴れ

Joe Cocker – Up Where We Belong でスタート。はじめて耳にしたのはいつだろう。思い出せない。1980年代の洋楽をくり返し聴いたせいか、現代でも80年代っぽい音楽にめっぽう弱く、コードを聞き分けられるわけないのに、つい「あの曲のあの部分」みたいに聴いてしまう。

この間、『舟を編む』を読み終えた。ようやくといった感。読み始めるまでがマラソンより長く、読み始めたら100mより速く感じる時間がねじれた読書だった。

4月に放映された辞書を編む人たちを録画して視聴しているからか、所々で既視感に。

著書のモデルはいらっしゃるんだろうか? それとも取材と想像で構成されたのか。わからない。モデルの有無に関係なく、馬締さんや荒木さん、ETV特集に映った方々が言葉のプロフェッショナルと思う。

机に座って何かを読んでいる。腕を45度ぐらいに伸ばした位置に辞書が並べられている。上下を反対にして「背表紙」を自分に向けて立ててある。「あ」「か」と印字された側は見えない。すべての辞書が「さかさま」だ。NHKで映ったシーン。

驚いた。どうしてそんな置き方するのか、と考える間もなく、辞書に手が伸びてきた。「うわっ!」と声を上げた。

辞書を手にとって、くるっとかえすと、「あ」「か」と印字された側が自分の方へ反転する。それを見てから、自分の机の上の辞書を置き換えた。たとえば、【支援】を気になって調べた。

しえん【支援】 (苦境にある人・団体に)力を添えて助けること。岩波 国語辞典 第7版 新版

数年前まで何の疑問も持たずに使っていた単語。辞書を引いてからはこの単語をタイプするとき、少しだけ「間」を置くようになった。意味を考えるまでは到らないけれど、なるべく言わんとしている意味に近づけて使っているか少し吟味するようになった。語感はどうかと思う時は、隣の辞書を引く。

しえん【支援】 援助を与える意で、改まった会話や文章に用いられる、公式な感じの漢語。日本語 語感の辞典

難しい単語を調べるよりも「普通」に使っている単語を調べるほうが面白い。知らない単語や難しい単語は、意味を知っても翌日には忘れてしまう。一方で「普通」に使っている単語には誤用の発見があるし、思い込んでいた意味を更新してくれる。

辞書の意味を知った瞬間から言葉に縛られる。「この単語はここで使えない」と頭によぎる。今まで使っていたのに、知った途端にタイピングの足手まといになる。新しい言い回しを考える。考えると言っても、造語ではない。調べるか読むか、記憶から引っ張り出してくるか。

そうやってあたりまえに使っていた単語が使えなくなってもだえる。が、ある時、何かのきっかけで開ける。使えなかった単語を使えるようになる。精神の解禁。

もだえが意味のトラックを一周し終えたかのようにスタートラインに立ち返ったとき、辞書の意味から離れて、私のなかで単語の意味が肉付けされる。そういう単語をひとつひとつ増やしていくしかない。

そして次は誰かと話す。会話は誤解の宝庫。同じ単語なのに、解釈は違う。前後の文脈で判断している。人と人は単語を緻密に解析して意味をすりあわせていくような非効率的な運動をえらんでいない。目に見える情報を優先して処理している。表情だったり、身ぶり、手振りなどを見て、自分の都合のよい(悪い意味ではなく)ように会話の解釈を処理している。

言葉に依存したら身体はさぼるけれど、それでも言葉に希望をもっている。

「私は十代から板前修業の道に入りましたが、馬締に会ってようやく、言葉の重要性に気づきました。馬締が言うには、記憶とは言葉なのだそうです。香りや味や音をきっかけに、古い記憶が呼び起こされることがありますが、それはすなわち、曖昧なまま眠っていたものを言語化するということです」

洗い物をする手を休めず、香具矢はつづけた。「おいしい料理を食べたとき、いかに味を言語化して記憶しておけるか。板前にとって大事な能力とは、そういうことなのだと、辞書づくりに没頭する馬締を見て気づかされました」 『舟を編む』 P.212-213