琵琶湖
diary

きれいなもののためなら綺麗を傷つける

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2014.12.24 晴れのち曇り

フラワーカンパニーズ – 深夜高速 (2009) でスタート。「生きててよかったと感じたことはない」ことが幸せかもしれない。そんな発想が浮かぶ。数え切れないほど聴いても、感じ方は変わっていく。

本を処分。文庫が多かった。本棚や部屋に空白地帯が現れる。あとは新書コーナを処分できればだが、まだ踏ん切られず。また買わないように注意。これまで処分した冊数の価格を合算したら、ライカを買えたか?! とよぎる。取らぬ狸の皮算用といえば誤用だ。

処分して体感できた。読みたい本は変わる。読み方も変わる。読む時機がある。何度も読みたい本は思ったほど多くない。何度も読まなければならない本は案外多い。何度も読めないのはなぜだ。

先日、建築士の先生の事務所で サトル―かすかな、ほんのわずかの the 47th Tak を手に取った。美しかったこれが「本」なんだなと。紙の質感が、持っている本と違う。裁断の精度も違うんじゃないかと思った。たぶん過去にも「本」を手にしていたはず。関心がなかった。設計(=Design)に興味を持ち始めてから「見る」が移ろう。移ろいは感じ方を更新した。いままで見ていなかった意匠を認識したくなる。認識したいならどうすればよいかと本と散歩をくり返す。

電子書籍と紙の本。近い未来に共存していても、100年後に書籍は消滅しているかもしれない。書籍というメディアが進化して現在のウェブサイトと融合される、未知のデバイスが開発されても不思議ではない。ただ紙の書籍が残るとしたら、こういう本であってほしい。

冬至。十九年に一度の朔旦冬至。書くのは易い。説明してくださいといわれたら窮する。知っているとはたいていその程度。伊勢神宮の式年遷宮にまつわる話にこの単語が出てきた。二十年に一度は朔旦冬至が由来ではないかと。

いつから日の出と日の入りを気にしはじめたか。思い出せない。日の出と日の入りの光は写真を装飾してくれる。マジックアワといわれるらしい。琵琶湖の夕陽を撮影していて目にする日の入りの光の妙。日の出も撮影したいが朝はなにかと忙しい。ほんとうに撮りたいなら何もかもほっぽりだして撮る。そんな人が「たった一枚」を創作する。

「たった一枚」を撮影するために要した手間のエピソードを読むと、まだまだ足元にも及ばない。パッと見てパッと撮る。インスタントなファストな写真。

京都の寺では撮影禁止の場所が増えたとか。撮影者の行儀が悪い。道行く人を遮る三脚。構図に入ってきた人を注意する。文化財を傷つける。昔なら手に入れられなかった高価なカメラを購入できる人が増えた。結果、プロが撮影した写真のように撮りたい欲求がわき起こる。機材をセッティングして理屈どおり撮る「きれいな写真」を量産する。自分のために撮るんじゃない。誰かに見せて褒められたい承認欲求がぎっしり詰め込まれた写真。

健康のためなら死ねるように、きれいな写真を撮るためなら美しいものを傷つけてもかまわない。迷惑をかけている自覚はない。

たばこは相当な時間をかけて肩身が狭くなった。お酒はたばこより早い時間で肩身が狭くなると想像する。近い将来、写真撮影も肩身は狭くなりそうだ。公共の場で撮影できない「空気」が醸成される。

いまでも海外ではストリートスナップが撮りにくくなったと耳目する。

その代わりスマートフォンに搭載された無自覚な視線が空間を埋める。「カメラ」はNGだが「スマートフォンのカメラ」はOKな奇妙な感覚が常識になっていく。

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