紅葉
diary

時間を忘れる

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2014.12.26 曇り

高橋優 – ヤキモチ でスタート。深夜食堂の主題歌。今回の第8話(二十八話) きんぴらごぼう が一番印象に残ったエピソードだった。プロットも台詞もよかった。「わかりやすく」が求められる昨今、つみきみほさんのぼかした台詞のひとつひとつを後から何度も視聴し直した。あれは、いったい何を指していたんだろうと。

年末。会社勤めの時、「どうぞよいお年を」とお客さんへ必ず挨拶して失礼した。師走の上旬であっても頭を下げ、後日、会社に電話がかかってきたら年末の挨拶を添えて受話器を置いた。

その感覚が薄れてきた、年々。挨拶は上滑り。発音しているだけのような感覚。四十越えてきちんと挨拶もできない。やや自分に呆れる。突き放したくなるが、挨拶の身体と言葉がぴたりと合わない。ぎこちない。

言い訳はある。スマートフォンや伝達サービスの進化。挨拶した翌日にウェブサービスからメッセージが届く。言葉は相手の存在感を保持している。翌年までお目にかからずとも、Face to Face の疑似体験。Facebook を閲覧しなくなったが、やっている人の年末年始の感覚を伺ってみたい。

時間。

時間との向き合い方。深夜食堂 3を録画。視聴する。30分ほどの時間を費やす。まだ何が言いたいのか自分でもまとめられない。確かなことは、録画するときに躊躇うようになった。「後で見なければ」と「今見たらよいのに」とか、堂々巡る。

学生の頃や20代、同じモノを視たのは何なのか。狂ったように何度も何度も。50回以上みた映画もあった。F1のレース、しかも同じレースを何度かみた記憶も。ほんとうに見たかったのかと問えば「わからない」と返す。今となっては思い出せない。「みた」という記憶だけ。「することがなかった」の一言で片付けてもおかしくない。

死ぬまでの時間をあらかじめてすべて設定されていたら?

くだらない疑問を浮かべて時間を消費する。AIが死ぬまでのスケジュールの「空白」を入力していく。空白がなくなるで埋める。カレンダに空白があったら、”『見るということ』(ちくま学芸文庫)を読む”や”『深呼吸の必要』をめくる”などのタスクを自動設定。何月何日はあそこへ撮影に行け、とか余計なお世話を淡々とかいてくれる。

この世界の私の行動パターンをイメージしてみる。変容について。おもしろそうだし、どちらが人間かわからない。窮屈か、楽だと思うか。トイレの時間設定はどうする、急な便意はさけられない。

そして、絶対が立ち現れる。死の設定。

時間との向き合い方を夢想している間は時間に囚われる。信仰に似ているかも。信仰心はないからある人に質問してみたい。自分を「時間」にすべて委ねてしまう。そんなふにも考えはじめた。

時間という透明の無から存在を生もうと対峙した人々がいる。その方々の思考の断片や結論は印刷物として残されている。芸術でも残っているかもしれない。多くの人の目にふれずに残り続けている誰かの創作もあると想像する。

人生を「時間」への対峙に注いだ方々の背中すら見えない。見えたら真摯な背中に失礼だ。見たいかと問われたら怯む。そんな覚悟はない。

囚われているというのは、渦中の人を見た視点の評価。外側からやってくる言葉。もしくは自覚できたとき。すべてを自覚で解釈すれば、「自覚厨」なる単語が造れそうだが、自覚していなければ、囚われているという評価を自分自身に下さない。

時間を忘れるという。それがほんとうかも。

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