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diary

お婆さん、よい年を迎えられていたらと願う

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2014.12.31

Keiko Lee / Human Nature でスタート。アルバム ヴォイセズベスト・オブ・ケイコ・リー はお気に入りのひとつ。オリジナルをさらに引き立てる魅力。カバーなのにオリジナルって言ってよいよね、って感じ。

森茉莉山本周五郎 が気になって検索。生年月日を知って合点が行く。著書を読んで似ていると感じていたから。心が強く、重々しい所作。辛口の言い回しに美しい日本語。

『貧乏サヴァラン』『贅沢貧乏』『私の美の世界』をゆるゆる読む。知らない日本語、辞書を引く。美しい日本語、辞書を引く。『樅の木は残った』『ながい坂』『虚空遍歴』をつらつら読んだ。作中人物の一言が、私に問いかける。『樅ノ木は残った』は心底を確実に抉っていた。今になってわかる強い影響。

最近まで「大人」について考えたり話しても恥ずかしくなかった。いまは恥ずかしい。きっかけはない。薄ら感じていた2Hで描いたイメージが4Bの輪郭として現れるかのよう。突如わき起こる気持ち。どなたかと「大人」を話していた自分を鳥瞰する私。私が自分にフィードバックして「恥」を入力した。

それ以来「私もまだ大人ではありませんが」は封印。類似の言い回しも禁句。

昔の文章と現代の文章の差異。端的に言えないけれど、ある。私が外側にあるかのよう。自分のなかに私がないような。誰かのため自分のためよりも、公あるいは外側の何かに尽くす、または果たす、そんな精神の構造。皮膚感覚。

優劣ではない。現代が軽く昔が重い、そういう話ではない。

私“すぎる”視点から私を解放する。

悪口ではなく辛口。嫌われるから書かないよりも素直に書いてどう思われようが知ったことではない。心意気か覚悟か。意見の根底にある市井の責務。

重すぎるから最後に落として笑いへ持っていくよりも、上品な洒落で笑いを誘う。今風なら空気を読まないといった態。明治にTwitterのたらればが沸々と。

大晦日。

ほぼ変わりなくいつもどおり過ごす。掃除と仕事、読書。翌日は元旦。『旧暦で日本を楽しむ』から言葉と風景の連関を知る。

やっぱり新暦の一月一日は「新しい年」ではあるけれど、「お正月」ではないなあと思う。これが陰暦(旧暦)なら約一ヶ月はあとにお正月にやってくるので、日は長く、太陽の光もぐっと春らしくなる。平成二十六年なら陰暦のお正月は新暦の一月三十一日にあたる。

『旧暦で日本を楽しむ』 P.3

「新春」の表現は残っている。気にならなかった単語が気になり、正しく使いたいわけではなく、適当に使いたい。風景を言葉で表そうとするときの余白は大切だなって思いはじめた。言葉に余白があるか否か、あずかり知らないところではない。

二十九日、散歩の途中で見かけた梅の木。極小の蕾。とても嬉しかった。冬、桜や梅の木に立ち止まる人は少ない。立ち止まって鑑賞する人はいない。花がなければ振り返らない。撮影で学んだこと。

散歩の終着点で『考える人 2015年 02月号』を購入。帰りは電車。駅へ向かう途中、背後から聞こえる派手な音。

振り返る。お婆さんが転んだ。一瞬、身体が硬直。硬直が解けて駆け寄る。顔を打ったはずだ。お婆さんは起き上がれない。声をかける。反応はある。口を切ったらしく血が流れている。無理に起こしたらダメだと思いながら声をかけ続ける。お婆さんが何か話そうとしたから手をそえて少しずつ体を起こす。が、うまくいかない。お婆さんの両手が震えている。血が流れて服につく。

通行人の男性が声をかけてくださったので車の交通整理をお願いした。私の後ろには若い男女の方が立ってくれていた。

ティッシュをお婆さんに差し上げて事情を伺いつつ、服の血を拭う。お婆さんは口を拭こうとするけれど、両手が震えて拭けない。

その場所でお婆さんといっしょに座ってやりすごす。私の体につかまってもらう。立ち上がれた。大丈夫だとおっしゃるが、駅までいっしょに歩く。駅にお爺さんがいらした。私は事情を伺っていたので、怒りもあったが差し出がましいことは申し上げるのは失礼かと思い黙礼した。

転んだときの動揺を推し量る。気持ちの痛みも気になる。

お婆さん、よい年を迎えられていたらと願う。

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