琵琶湖

ねぇ、見て、見て、見て。

2015.01.22 雨

世情 ‐ 中島みゆき でスタート。理由なくにわかに現れるイメージ。イメージと音がリンクして突き動かされて延々と聴きたくなる。年に数回ある衝動。いきなりやってくる。ずっと聴いている。

何者であるかを欲望するより何者でもないことを選ぶ。何者でもないと言えても、裏腹に何者かを欲望している。○○家(建築家・小説家・写真家・評論家….etc)と名乗っても他人が○○家と認知してくれなくて歯がゆい思いを重ねるみたいに。名実ともにと言う。それほど名称と我の一致を願う。

私が自分を認める。独り善がりに陥らないで認める。独り善がりとは? そこから出発する。道筋はない。右往左往して「独り善がり」らしき標識を探す。

私ひとりだけしかいないなら、(大仰な言い方すれば)存在しないなら、独り善がりにならない。もしなりたくても難しい。公園を散歩していて目にする冬日。見惚れてしまうほどきれい。カメラを構える。冬日を見つけて撮り終えるまで独り善がりは一切ない。でも、冬日をつかまえたくてレンズを向けた先が家の壁だったら?

ためらう。

光があたる家の壁を見た瞬間、見られる。見る行為は、同時に見られている。「見られている」が表れたとき、周りの中にいる自分を知る。

見られているから見るのか、見るから見られるのか。わからない。いずれ鶏と卵の関係をわかりたいけれど、観察が足りないし言葉を知らない。いまは皮膚感覚をつなぎ合わせて単語の道をつくっている最中なんだろう。

やがて言葉に変換されて文章を構成して、「見る/見られる」の系の構築を自身に期待している。

家の壁は見返さない。視線がないから交わらない。なのに見られているように感じる。壁だけなら見ているだけに近いが、壁に窓が備え付けられていれば、リアリティが増す。

誰かに「見られている」という感覚ではない。便宜的に「見られる」と使っているけれど、(適切な表現ではないが)物理的に見られている感覚はない。レンズを向けた先が樹木でも見られているし、琵琶湖にも見られている。ただ広範囲に見たら何も感じない。それは見るというよりも眺めている。あるいは焦点が定まっていない。

便宜上使っている「見られている」とは違って、文字どおりの「見られている」もある。

「見られている」意識が強いと、よりよく見せるようになる。観察範囲から憶測すると、よく思われたいようだ。観察範囲が狭いから一般化しないけれど、そういう傾向が強い。周りの人たちから自分をよく思われたいからよりよく見せる。見られているとわかっている。

「見られている」意識が強すぎると見ていない。そこには自分しかいない。相手を視野に入れても見ていない。相手はいる。でも「見られている」だけ志向する。転じて自分をどう見せるかに集中する。

その集中力たるや相手を視界から消す。

見ていないから相手の変化に気づかない。

周りと自分の関係を描かれた絵画を「見る」ように観察できたとき、自分は現れる。見ていないから自分は現れない。現れないのに自分はあるから倒錯する。

自分の変化に気づいてほしいから、相手が気づくまで待てなくて、自ら「告知」する。相手が何を見ているかを見るのではなく、「見られている」という意識、頭の中の世界だけを見ている。