雪

5年前をいま考えるぐらいの時間のずれ

2015.02.02 曇り

古今の本棚を比べてみたい。記録しておくべきだった。心残り。 もし背表紙が人格だったら、分人ではなく別人だろう、きっと。20代はビジネス書がひしめき合い、30代はウェブサイトやサーバの書籍へ立ち代わり、いまは詩集や写真の本が並びはじめた。

死蔵の絶頂から書冊は減った。現在進行形。頭の中で背表紙は分類されている。ぼんやりした分類。イメージを説明できない。どうして発想のイメージを説明できないんだろう。もどかしい。分野と著者が格子状で、背表紙が配置されている。書冊を覚えているわけでなく、だいたいこの位置(分野と著者)にある。そんなイメージでで分類されている。

分類がはっきりしていなくても位置関係があるんだけど、だんだん位置関係がわからなくなる。収拾つかなくなる。処分開始。重い腰をあげて処分するわけでなく箱へポンポン入れる、ようだ。ようだ、ってあやふやだけど、無意識に身体が動く。

死蔵の絶頂時、覚えていない背表紙に驚いたことがあった。

背表紙を並べる。しっくりこない。いままで本棚の背表紙をさんざん並べ替えてきた。意気込んで並び替えた背表紙の群とだんだん疲れてきた列。よくわかるからおもしろい。

著者別、分野別、出版社別、サイズ別、もう別々がわからなくなって、同じ漢字を何度も書いている最中によぎる奇妙な感覚、この形でほんとうに間違いないかだんだんわからなくなってくる、皮膚ではなく皮膚の中がかゆい感覚がブートした。「分類」が気になってしょうがない。

分類は底知れない。「分類」学はあるのかしら。あっても感心しない。「あっ、やっぱり」って淡泊なうなずきだけ。骨身を惜しまずやったことへは淡々と反応する。だから危ない。(なにがほんとうかなんて人それぞれだけど)ほんとうの絶望を知ったとき、激しい反応を示すより、平坦な表情で「そうか」と一言だけ口にする絶望がこわい。

無は心を魅了し、心を破壊する。

Wikipedia で動物を調べると表示される生物の分類 – Wikipedia一枚の絵にするとしたら、必要な面積はどれぐらいなんだろう。

いつから分類しはじめたのか、人は。「分けなければならない」のは本能か、知性か、なんでしょう、一体。

文章が書けなくなった。困っている。昨年からますます書けない。ここも二日に一回は書きたい。1ヶ月に15本。いざ画面に向かうと書けない。3行日記はつけている。でも毎日書かなければならないのにこちらもさぼっている。

書けていた頃の過去ログを読み返す。他人が書いた文章である。反論もある。誰かの本を読んでわかったつもりになる。わかったつもりで単語をつなぎあわせて私見のように書く。難しい言葉を使いたく書いているな、と今は感じるし、論理的に書こうとしているけれど、他人の借り物だから理路を整えられずに無理矢理つなぎあわせているとも読む。

写真が思考を変えた。

入力と出力の関係。入力(本を読んで)と出力(文章を書く)が、入力(発想する)と出力(撮影する)に変わった。

書けていた頃は、「書く」自体に満足していた。欲求を満たすために書いた。言葉を駆使したい欲求。中身じゃない。単語を使いたい欲求。道具を使いこなすよりも所有するだけで満たされる欲求。国語辞典や類語辞典を調べて言い回しを使い回し、本の成句やキャッチコピーから「型」を抜き出して単語を入れ替えた。

それができなくなった。

言葉だけではないと体感したとき、自分の中で「言語」が萌芽した。育てられるかどうかはわからないが、いままでどおり、身体が反応することに任せる。考えるのはずっと後からで良い。5年前に書いていたことをいま考えるぐらいの遅さが性に合っている。