XF35mm

知ってしまったから背けられない

2015.03.02 晴れ

知る。辞書をひいても実体をつかめない。高校の時に「無知の知」を教師から教わった。数人の先生は口癖のようにおっしゃっていた。「自分がいかに物事を知らないか知りなさい」と教わった。きっと偽の記憶だ。うろ覚えだから後からの知識が肉付けされている。

写真のように「その瞬間」を言葉として記憶できたら便利かしらと思う反面、そうなれば記憶の整理にたいへんだなと想像してみる。

1995年の「無知の知」、2000年の「無知の知」、2015年の「無知の知」みたいに「無知の知」を記憶したら全身が吹き出物だらけになりそうだ。

その後、大学の図書館で「無知の知」の意味を読んだ。どの本すら覚えていない。「読んだ」という記憶が残っているが、これもひょっとしたら嘘かもしれない。他のメディアで見聞した体験を「本で読んだ」と勝手にすり替えているとしてもおかしくない。結局、「無知の知」の真意を理解できないまま。

知る。「知ってます」と言ったとき、「理解してます」か「(存在を)認識しています」か「経験した」のか? 文脈から推測するけれど、無体である。自らの「知ってます」ですら、意味を把握しないで都合よく使っているんだから、相手から「知ってます」が返ってきたら「何を知っていますか?」と尋ねればよいが、尋ね方を誤ればコミュニケーションに難ありと受けとめられかねない。

それでもお互いに「どう思われるか?」を取り除けないと、言葉の伝達精度は高まらない。

礼儀と伝達精度は反発する。

知る。知りたくないことを知る。知るというよりも見聞きであろう。殺人や事故、事件の詳しい内容や方法など、他いろいろ。テレビのニュースを見ないし新聞を読まないのでニュースにアクセスする機会は、5年前より激減した。その代わりにネットや会話から流れてくる。「知る」のフィルタリング機能をほしいのに、「知らない」と「知らなければならない」の判断を自分に任せたら「知りたい」に偏る。そして途方にくれる。いったい何を知りたいんだろう? 本棚を見て捨てた本を思い出して首をかしげる。わからなくなる。

知る。知ってしまったがゆえに引き返せない世界。知らなくても暮らしにさしつかえない。なのに知ってしまったからには背けられなくなり、もっと知らなければと衝動にかられる。いまの私なら色。色の何を知りたいかまったくわからない。「色」の地図を手に入れたいぐらい。現在地もわからない。でも、「色」を知りたい、勉強しよう、勉強しなければならないと自分に焦る。

想像のなかで色を知っている自分のものすごくぼんやりした輪郭があり、その自分といまの自分を比べて焦る。前者の自分は複数の他者の融合された状態だと思う。尊敬する方、憧れる方を勝手に掛け合わせて自分へインストールしたような状態。

知ってしまったから背けられない世界がそこにあった。大袈裟に言えばそんな気持ち。

色を知りたいからといって、私が見ているリンゴの赤を他者も同じ色として見ているのか、なんて問いに興味はまったくない。他者が見ている色に関心はない。リンゴの「赤」をどう表現すればよいのか? 色の階調は? 残す赤と削る赤は? 自然光があたったときに目に映る赤と表現する赤は違ってもよいとしたらどんな赤を表現したいのか? よぎる悶々とした質問。答えがわからない質問。

知る。そして誰もが、あるいは大半の人が知っている(であろう)ことを知らなくてもよいと構えられる心。

「知りません」という言える自立。