琵琶湖

インターネットと死者との対話

2015.03.11 曇り時々雪

インターネットは墓標を残せるだろうか?
インターネットは死者との対話の空間を残せるだろうか?

Facebookはlegacy contactの制度を開始した(参照1, 参照2)。自分の死後、プロフィールの一部を管理してもらえる人を選べるようになった。死後への発想のきざしは感じられる。

「インターネットは消える運命にある」とエリック・シュミット氏は語った(参照)。あらゆるものがネットに接続して、ネットを意識しなくなる未来がやってくると描いている。

その未来へ少しずつ近づいている。自動車や家電はネットに接続しはじめた。いまのデザインは「接続」を感じさせるけれど、いずれ接続を意識させないよう設計され機能が実装される。ありとあらゆるものがネットに接続する社会。

その社会にはリアルかネットかという区別はなくなる(リアルと言う自体がおかしいけれど)。そんな社会に近づきつつも、既存の制度や文化をネットへまだ導入できていない。墓標もその一つと思う。

身の回りを整理して最後を迎えられるか、昨日のままに不慮の外か、自らどうにかできるわけではない。準備して果てられたら最高の幸運だと今から願っている。

このブログもできればなにかしらの形で残せられるかどうか思案している。

人は死者と対話する。いろんなことを話している。話してなくても思っているし、おはようと声かけたり、なぜと尋ねてみる。

遺志の有無にかかわらず物事は残る、残される。それらを宝物として大切にする。想像する。とまった時間とすすむ時間が平行しているけれど、想像がその二つを結びつける。過去と未来を想像のなかで描ける力を人は持っている。

Facebookは自身を何世紀も残る企業として想定しているから legacy contact を導入したんだろうか?

導入の意図を知らないけれど、legacy contact からFacebookを社会のインフラにする意欲を感じとった。TwitterやLINE、ブログサービスは同様の制度を設定しているのかな?

インターネットで生成される膨大な量のデータ。毎日蓄積される過去と現在。でもそれらを未来へ残すことに限界があった。インターネットは公共であるけれど、何かをしたいなら企業が提供する場所を利用しなければならない。企業は損失を出してまで過去と現在を未来へ残さない。利用者の「日常」は「データ」に変換されてハードディスクから削除される。健全な証。

遠い将来、インターネットが希望する人に対して墓場を提供したら画期的だ。いままで利用してきたデータをそこに移行できて保存する。そこへアクセスすれば故人の足跡を辿れる。残された写真、動画、文章、音声。

印刷した写真、端末と保存媒体が映し出す動画、紙に書いた文字、保存媒体に録音した声。どれもいまでも残せるものだけど、インターネットが介在したら難しくなる。

インターネットが死者との対話の一部に組み込まれたら、どんな日常になるんだろうか?

イヤホンから懐かしい音楽が流れて来たとき、「○○」と発声したら目の前に動画や写真が映し出されたり、声が再生される。

絵空事であってもインターネットが「未来」を意識しはじめた社会を期待したい。