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diary

さぼるのもがむしゃらなのもどちらも自分

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2015.03.18 曇り時々晴れ

珈琲がはいったTHERMOSを持って散歩。珈琲豆が値上がりしてきて懐と相談した結果、ネットから購入してみた。珈琲豆のネット購入にためらいはあったけど、背に腹はかえられぬ。いつもと違う豆を挽きつつ、気がかりだった味は杞憂であり、おいしかった。珈琲は道をつけてもよいほど奥が深いと思う。珈琲を特集した雑誌を何冊か読んでみて、究めようとしている人々の情熱に感じ入った。私には無理。

お目当ての初御代桜が五分咲き。所々では七分ほど咲いている。一眼レフに望遠レンズを装着した年配の方が一脚を立て構図を決めていらっしゃった。ちらりと見たらSIGMAの文字。それだけでお上手なんだろうなぁと根拠無く推測してしまういい加減さ。

曇り気味で拡散光。桜を満足に撮れたためしがない。こういうときの光をどう捉えて撮影されるか興味津々。さらに初御代桜は下に向いて咲く。私にはG難度の表現。離れて後ろから数分だけ拝見した。

天気予報を甘く見ていた。長袖のTシャツにコットンとヤクウールの長袖を重ね着、色落ちしすぎたジャケットを羽織っての散歩に発汗の気配あり。あわててジャケットを脱ぐ。暑い。

休憩に小屋へ向かう道すがら先ほどより長い望遠をぶらさげるお年寄りとすれちがう。カメラとレンズの重量はひょっとしたら3kg近いかも。縁遠い画角の世界。またもやチラリ。首からオペラグラスらしきもの。胸の高鳴り。

木の小屋で腰をおろしてTHERMOSを鞄からとりだす。珈琲を一口。熱い、暑い。

珈琲を飲みながらお年寄りを眺める。白梅を見上げていらっしゃる。ゆっくりゆっくり歩く様子から、構図を吟味しているかと憶測するも、あまりの入念さに舌を巻く。そこまでして「一枚」を選ぶのか。自分の雑な撮影が恥ずかしい。

あたりをうろうろしているが、レンズを構えようとしない。ひょっとして愛でていられるだけかもしれない。諦めて腰を上げる。途端、構えた。二度目の驚き。そんなにしてもまで構図を決めるの、エエー。丁寧さに脱帽。

よいものを拝見いたしました。

正法眼蔵を読む。理解できない読書は億劫だ。なんのために読んでいるのかしばしばわからなくなる。正法眼蔵随聞記を読んでいるときの感覚がよみがえる。でも、読み終えた後に訪れる「あの」感覚を楽しみに30分に1話か2話しか読めない速度に耐える。自分との向き合い方が変わったと錯覚できる「あの」瞬間。

他人からどんなふうに思われるかに悩んでいたから自分との対峙に目を向けるように読めたのだろう。誰かと比べたり何かと比べようとしていたから自分の内側にもっと目を向けなければならないと読めたんだと思う。

どう読むかは私の自由であるけれど、どう読まなければならないかは私を捨てるまでわからない。いまだにどう読まなければならない見当も付かない。

自分の内側へ深く潜っていきたいなら、自分を捨てなければならないと思えるようになった。思えても捨てられないからもどかしい。そのもどかしさの正体を探す。どこにいるのか、何なのか。

さぼるのもがむしゃらなのもどちらも自分であり、自分の有り様に一喜一憂する。誰かに言われてさぼらないし、がむしゃらにならない。ではいったい何に一喜一憂しているんだろう?

そこに関わりがあるんだと思う。ではなにと関わっているのか? 内側にある皮をめくっていく。時間がかかるしいつ終わるかもわからない。

先日、TLに Jeff Buckley – Hallelujah が流れてきた。iTunesを起動させてApple TV経由でTVから流す。スピーカがほしくなった。すてきな曲だ。ずっと聴いていた。

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