琵琶湖

実体のない寂寥感

2015.03.25 晴れ時々曇

冬将軍が退却したくないらしく逆寄せしている。季節が脱臼したか、寒い。昨日、ラッシュアワーに電車を利用した。JRならたまに乗車するが、私鉄はめったに利用しない。春休みに入ったから学生は少ない。途中から座れた。左右に揺れる。その揺れとは異なる振動した心的な質感は何かとつながりそうだった。でも言い表せない。リンクをクリックしたらページが見つかりませんなもやもや。

もやもやしながら場違いな場所で本を読む。一息つきたくて本を閉じてスマートフォンを手に取った瞬間、接続された。

振動した心的な質感は、実体のない寂寥感。

ラッシュアワーの中にいる人々と自分に境界線を引く。私は車内への闖入者と誇示するために線を引き、闖入者でありたい気持ちを鮮明にしがたる幼稚な自分を認知している。だけど抑えられない。その暗さは乾いていて、結露でぬれた窓みたいに水分を含んでいない。ふさぎ込む暗さではない。

自室での仕事に慣れ、誰かと会話しないですむ心地よさを覚えた。でも真に独りではない。

スマートフォンをタップしてつながる。溢れる文字。会話はしないけれど、「そこ」に見しらぬ人がいる安心感。実体のない寂寥感が起動する前に「そこ」を確かめる。スマートフォンが実体のない寂寥感を慰撫し、やがてスマートフォンに依存する。

独りを体験したいのに独りを通せないもろさは、太陽を背にした眼前の影のようで振り払えない。

部屋から外を確かめる。街路樹の葉がざわざわして流れる雲。風が強くて晴れ間が出ると琵琶湖を撮るのが難しい。波を写せず、空の色を出せない。そういう時こそ撮影に挑戦せよと思うも腰は重い。

琵琶湖の湖岸までは歩いて約十分。撮影ポイントまで含めたら十五分ほど歩く。毎日歩いて行ける距離と信念は比例しない。毎日同じものを撮影する人は、ほんとうにすごいと思う。『川瀬敏郎 一日一花』を真似て一日一湖を頭に留めておく。歯を磨くようにその場所へ足が向く型を作りたい。

琵琶湖の撮影は表現を手解きする。表現を決めずにレリーズしたら凡庸な一枚がSDに記録される。フィルムだったら冷や汗もの。好きな景色は灰色の空で静かな湖面。湖面と空の境目がなくなるような色合いを撮影できたときとてもうれしい。何を写したいか?

Nao Yoshiokaさんの話を思い出した。15歳で歌い始めのに歌えなくなり、2年間ほど引きこもり、ある日突然渡米した。英語を一切話せないままのNY着。手当たり次第にボーカルコーチを探した。そして出会ったコーチから「歌は言葉だから君がほんとに歌を伝える気持ちがあるならちゃんとしなさい」と言われて、発音を徹底的に鍛えられた。2年6ヶ月、週一回のレッスンでは歌というより言葉(発音)を学んだ。レッスン以外は毎日練習してアポロシアターにチャレンジの日々。

彼女のお話を聴いて、伝えることは信じることだと感じた。信じているから伝わる、という実感。実感を裏付けるための積み重ね。

自分の腕を信じられなければ、何を写したいかもわからない。腕を信じるためには勉強と練習しかない。写真と色と向き合っている独りは実体のない寂寥感に包まれない。ネットは調べるための道具として扱っている。画面の向こう側を感じない。いろんな自分がいる。

さえずりの配達。見えない配達夫の鳴き声は練習に聞こえるときもあれば、誰かを呼んでいるようにも聞こえたりする。

https://www.youtube.com/watch?v=0XHApMa3AHw

Nao Yoshioka with Candy Dulfer