木蓮
diary

他人をとやかく言えても自分には沈黙

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2015.04.02 晴れのち曇り

10人いたら11人が不思議に思うはずと言いたくなるぐらい光陰矢の如し。歳を重ねるたび感じ、本棚を眺めて追い立てられる。朝夕の寒暖差あり。初夏のような昼間。

花起こしの雨かと思ったら週末には花散らしのお天気になりそう。今年は桜よりも木蓮に目を奪われた。大きな花びらが落ちる様が躍動感にあふれていて、灰色の石のベンチと積もった白木蓮の色合いが美しい。

ヴェーユの哲学講義 (ちくま学芸文庫) のKindle版を読み始めていきなり揺さぶられた。

現在の自分を観察しようとしても、そこに、自分を観察しようとしている心の状態しか見いだせません。したがって、内省は過去の精神状態しか対象にできないことになり、そのことが内省のもつ客観的な力を損なっています。

さらに続く

思考を自分自身に向けようとしても、そこに自分の思考以上のものが見いだされるわけではないということ。

どうしたら「以上」を見いだせるのか?

観察を自分に向けたら苦労する。自身の行為を観察する基準がわからない。電車の中で鞄を膝の上に載せず、隣席に置いている人を目にする。「どうして膝の上にのせないの?」「マナーの悪い人だな」などと感じる。車内で立っている人がいるときとそうでないときとでは、感じ方は変わったりする。

感じ方を少しだけ掘れば常識やマナーにたどり着き、なかには行動心理や哲学、倫理へと拡張する(したがる)人もいるかもしれない。

基準があるから比べられる。たとえ印象であっても比べてみて好き嫌いがはっきりしたり、良い悪いを区別する。確固とした基準を持っているから他人の行為をあれこれ言い、舌鋒鋭く論じる。その基準の中身を定期的に査定して書き換えているかどうかは、こちらからはうかがい知れないからやっかいだけど。

身体はどんな思考よりも先に世界を分類してしまうものなのです。

ネットで目にする批判を読んでいると、敬称と敬称略を使い分けている方を多々見受ける。使い分けを勝手に分類してみる。根拠はなく印象であるけれど、身体は《全体》と《関係》を感じとるものであるということ(ヴェーユの哲学講義 (ちくま学芸文庫))なんだと思う。

好意的あるいは感覚が自分に近そうな人には敬称をつけ、批判すべき対象には敬称略で記述する。

どうして私は他人の行為をあれこれ言えるのに、自分自身のことになった途端にあれこれ言えなくなるんだろう?

欠点を治す、長所を伸ばす、得手不得手な点、そういう視点をいったん捨てて、まっさらな状態で自分の行為を記述する。それが難しい。欠点なら治そうと感じてしまうし、長所は見つけにくい。得手不得手はその時々で感じても書き出そうしても指が止まる。

基準への依存。

基準をつくる。それがどれだけ大変であるかは個人事業主になって痛感した。いままであった「価格」はない。自分で計算しなければならない。でも、その計算の根拠となる基準がまずわからない。あの人ならこの仕事を1時間で完成させられるけれど、私なら2時間かかる。だとしたら2倍を請求するかとしたら、とっくに廃業していたと思う。

あるいは自分自分に観察を向けたときには基準は幻想であって、自分の思考は未来から先取りできないから過去から遅れてやってくるのを常に書き換える作業なのかもしれない。

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