Lake Biwa
diary

可能性を消していく

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2015.04.21

酒を飲まなくなって約3週間。煙草を吸わなくなったときと似ている。前の日まで吸っていた。10年以上吸っていた。「あの日」吸わなくなって、そのまま続いている。環境が変わるから吸わなくなりそうだと感じたが、「感じたから吸わなくなった」ではなく「吸わなくなった、あとからそう感じた(と思った)」であり、禁煙を誓ったわけでもない。机の上にLARKとライタを置きっ放しであった。

前の日までほぼ毎日飲んでいた。竹鶴をストレートで30mから60ml。「あの日」飲まなくなって、そのまま続いている。三分の一ほど残った液体。

このまま飲まなくても困らない。だけど自分を演じるときに飲むだろう。誰かの前で自分を演じる。誰かには自分自身も含まれる。口から出かかった「お酒を飲まなくなったんです」は、「どう見られるか?」の塊といっしょに飲み込まれる。誰にも迷惑かけないにもかかわらず、「どう見られるか?」は歯石のように精神に付着する。

嘘と素直は手を取り合っている。素直に嘘をつけば、嘘の素直もあり、「酒を飲まなくても困らない」は、嘘か本当か素直になれない。

煙草を吸わなくなった理由を何度も話すことで嘘の記憶を本当に錯覚してきたように、酒を飲まなくなった理由を誰彼に何度も話すんだろうかと想像する。「ほんとう」の理由はない。あるのは液体とすこしだけ誇らしげに思える自尊心。

いまわからないことがずっと後になってわかる。10年、20年かかるかもしれないし、もっとかかることもあると思う。

「今年の桜を観てもしっくりこなかったのはどうして?」と自問の水面に浮かべた針に自答が針を引っ張る。いつ引っ張るかは不可知。桜を何度も見た。昨年までと違った。感じ方が変わっていた。変わっていた、と言うのも桜が散ってから反芻してそう思っただけであり、ほんとうに変わったかどうか測定できない。昨年の感じ方指数は85でしたが、今年は15ですと測ってくれたら今以上に堕落できるのに。

木蓮に目を奪われた。桜ほど何度も見ていないが、目に入った木蓮の大きさと色に揺さぶられた。駅前の木蓮が散りはじめて、石のベンチの上にたくさんの花びらが座っているのを呆然と見ていた。どうしてこんな場所に作ったのかわからない、座っている人を見たことがない石のベンチは、木蓮の花びらが年に一度座るために設計されたみたい。

酒を飲まなくなった(また飲むんだろうけど、きっと)こと、桜に入らなかったこと、昨年と違っているほうが正常であるはずなのに、同じでなくなったもやもやした気持ちがあり、それが一体何なのかはわからない。ずっと後になってからわかる。

「あの時どうしてああなったんだ」という有限の過去に、「あの時ああしていたらどうなっていたんだろう」のどこへ行くかわからない無数の線路をつなげて、線路を消していく作業、それが「わかる」ということかしら。

山口晃さんがおっしゃっていた。

「描き始めが一番かかる。怖いわけですよ。描かないと宝の山ですから。可能性100%の素晴らしいものがあって、描いていくっていうのはものが出来ていくんじゃなくて、可能性が90%に削られて80%に削られて、どんどん無くなっていく。可能性を無くして、確定性に変えてゆく。」(日曜美術館 – 山口晃氏)

可能性を消していく作業。

その「わかる」も一度ではなく、折々の気持ちが「わかる」を書き換えていく。フロッピーディスクの「上書き禁止」スイッチが、記憶装置に実装されていたら、酔わなくてもよい日が続くだろう。

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