琵琶湖
diary

感覚から生まれた言葉は自分の予想に陶酔する

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数年前から休眠していた mixi のアカウントを削除した。Facebook も Messenger を仕事で使わなければ削除できそうだけど、海外の Photographer のフィードがすばらしいので悩ましい。自身を閉ざしていても違和感ないのに、閉ざされたインターネット空間には否定的。でも閉ざされているから放擲できる自慢や愚痴、称賛や承認欲求はあるから、それぞれが望む場所へ落ち着く。

マナーと敬語の研修を依頼されたので読み返す。ドキッとした。初版は2004年。

ことばというものは、話し手が聞き手に、つまり相手にことばを発する。そうすると、相手はそれを受け止めてまたこちらへ返してくれる。キャッチボールです。そのことによって一番小さな二人の社会がそこにできる。その二人の社会が三人になり四人になりして人間集団の一つの組織ができてくる。その基礎が「話ことば」なんです。そのことを思うと、「話しことば」の衰退ということは、人間存在を危うくするものではないかと思います。

ホンモノの敬語 (角川oneテーマ21) P.103

思い当たる。人と会わないせいもあるだろうけど、話ことばへの苦手意識に拍車がかかる。

相手の話へ返答しようとして困る。最初の単語が出てこない。筋道を描けない。相手の話を伺っているとき、イメージが浮かんだり、パズルのピースのようなかたちが点在する。集合の○を描いていたりする。それらの映像(にもなっていない記号の塊)を言葉に変換しようとしたらできない。たどたどしく話す。

私見を述べることに抵抗はないが、的を射た発言をしなければと気負いすぎかもしれない。

社内の人々やお客さんと会話する機会を10年以上経験しなくなると、人間ドックの検査結果に示される基準値を失った感覚を持つ。「そういえばあの人はあんなこと言っていたな」「ああいう意見もあったな」「そんな考え方もあるのか」と、時には苛立ちや腹立たしくもあった「意見の集合」へアクセスしなくなり、私見との距離感や座標軸を見失う。

「自分は他人と異なる視点を持っていたり発想する」から私見を述べにくいという奢り。奢りが一人で仕事しているときの焦燥感をとりのぞくから手放せなくなる。「他人と私は違う」と思い込みたい。

高慢を認めなければ苦手意識を払拭できない、と自分を観察している。

雨がよく降った四月。つい最近まで肌寒い日もあったのに、今日は夏日になりそうですと聞こえてきた。気温も「間」がないらしい。牡丹がいつのまに咲いていて二度見した。気づかないもんだな蕾に。

行き交う人より景色を眺めて歩くようになっても気づけない。つい先日もちょっとだけ落ち込んだばかり。いつも散歩で通る道の視覚障害者誘導用ブロックが、にこちゃんマークだった。「えっ!」ってつぶやきながら二度見した。何年ここに住んで、散歩してるんだ。

感覚とのつきあいかたはほどほどに。当てにしすぎず、かといって鈍くならず。自分の感覚ほど当てにならないぐらいで動き回る。感覚の前段階ってあるのかな。感覚になる(?)前の状態みたいもの。感覚の大半は感覚のままで消えるんだろうけど、感覚が事象を言葉にしたらやっかいだ。そのなかに事実以外が含まれている。感覚は事実を歪曲しないけど、感覚から生まれた言葉は自分の予想に陶酔する。やがて予言になり予言に泥酔すると事実かのように触れ回る。

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