diary

うきうきさせる不安定は境界線を越えそうにない

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サイト制作と散歩のGW。よんどころない事情から無償で制作しているので手が空かないととりかかれない。とはいえ隙間だけで制作すると、途中を思い出せなくて困る。というわけで、休日の塊を使った。

4月30日、仕事で舞鶴へ。帰りは京都某所にて久闊を叙する。いつもの方々が集まり、1年ぶり、もしくは2年ぶりの拝顔。変わらないようで変わる。みなさん歳を重ねて立派になられていく様にややたじろぐ。乾杯でウーロン茶を注文。周りの反応が予想よりもあっけなかったので自意識の高さに恥じる。

もう少し詮索されるかと構えていたのできまりが悪い。アルコールの代わりにほろ苦い劣等感をつまんで茶色の液体を喉に流し込む、喉か心の渇きかわからないまま潤す。

観光都市世界ランキング1位に選ばれた京都。その華やかな印象とは対照的な舞鶴の街並み。

平等を求めた結果、似ている建物が連なる街づくり。ここがどこなのかわからなくなるほどであり、助手席から眺める舞鶴市内は、滋賀県の国道・県道のようで、初めて通った道は海が見えなければ既視感の連続。舞鶴市内の大通りは営業不明の店が世界遺産のように佇んでいた。

その景色を眺めながら商店街を思い出した。商店街の衰退が指摘されてから久しい。散歩で商店街に立ち寄る。自宅から30分ほど歩く。

GWも重なってシャッター通り。4月に西友が撤退した。西友の隣にあった店舗は移転のお知らせを貼り、近くのお店は閉店のお知らせ。

この商店街の活性化を目指して会社を設立、有名店を誘致するニュースをインターネットで知った。

誘致された店先へたどり着き店内を伺う。周りがお休みのなか営業していた。客足は一般的には乏しいと言ってよく、ただ商店街的には賑わっていると胸を張れそう。

このお店がカフェを併設することは珍しいとの由。わざわざ「ここ」まで来店するかな。京都や大阪の百貨店に行けばある。

商店街の中ではいろんな意見があるんだろうなぁと想像する。この商店街へ足を運ぶたびに感じる不安定。

「このお店は大丈夫か」と訝しむ不安定もあれば、「このお店はおもしろい」と楽しませる不安定もある。

反対に安定したお店がある。「このお店は無難だな」と無表情にさせる安定があれば、「ここはいつ来てもあちこち見たくなる」ようなうきうきさせる安定もある。

事を起こすとき反対する人はいる。一言付け加えたい人もいる。完全な一致はない。

反対は真の反対ではなく、やりたくないための自分を納得させる理由がほしくて、一言は真摯な助言ではなく、自分の存在を確かめる虚栄から発せられる。

全長1kmはありそうな商店街は三つの組合に分かれている。外から見れば1本の道に見えない境界線がある。

「たぶんこの辺りから違うんだろうなぁ」という境目。

文芸誌をぺらぺらめくっていたら登場人物が「何もそこまで言わなくてもいいだろう」とどなる場面があった。この言い方が懐かしい。ドイツ語ならなんと言うだろう。「その言葉によって、あなたは境界線を越えてしまった」だろうか。日本語の言い方には「境界線」が出てこない。「そこまで言う」の「そこまで」は、一体どこまでなのか。多様化した現代社会で、人にものを言う時に、「ここまでは言っていい、ここからは駄目」という常識をわたしたちは本当に共有しているのか。
『言葉と歩く日記』(岩波新書) P.32

境界線が出てこない代わりに見えない境目をつくる。見えないにもかかわらず、「境」の形をつくることに腐心する。結果、線ではなく面、あるいは空間として「境」を表す術に長けたように感じる。

その境は「内側」にもある。

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