ラベンダー

言葉は汚れている

会っていても大事でないつながりと会わなくてもかけがえのない関係。どちらも大切であり、どちらかを選べるし、あるいはどちらも「そのとき」でしかないと達観している、三つ以外の反応はあるだろうから人それぞれ。

人を信用できても、言葉それ自体を信用できないことはある。「もうしません」と言って「している」わけで、それは一年に来訪する流星群より多く、実際に「している」様を目にする機会は流れゆく星を見つけるよりたやすい。

浅田次郎先生がおっしゃっていたことが核心を衝いている。

「小説家は言葉による表現なんですよね。純粋な言葉による表現しかないわけですよ。ここに凄くじれったさを感じるというのがね…。どんなに文章の修行をして、自分が納得いくようなものが書けたなと思っても、それは決して完全では無いんですよね。そこは必ず自分の心構えとして考えているのは、”言葉は汚れている”という大前提なんです。人間の精神って、僕の心の中にある思想というものはもっと純粋なものなんだけれども、方便として、この言葉を使っている。言葉というのは最初から汚れているんだっていう気持ちを持って、原稿を書くようにはしているんですよね。」 – 浅田次郎 2015/4/26 ボクらの時代

何かしらの事由があって「しないと言ったのにしている」んだろうし、理由なんてなくて衝動的にしたやもしれず、あるいは自分の「純粋」に従ってしたのかと想像したり。

言葉を額面通り受け止めず割り引く。誠実を支払って虚静を手に入れた。あるいは鈍感を手に入れた。

誰が言ったかと何を言ったかを切り分けられないし、言った人の本心を手に取れない。どこかに本心が落ちていやしないか期待を寄せるより、為そうしている、為した形にふれられるように相手との距離を推し量る。

無形の本心を希求していてもせんずるところ言行一致を見ていて、一致していなければ、アレコレ言い、ひとりで苛立つか、誰かに怒りを投げる。でも言葉を額面通りに受け止めなければ、一致していなくても「なにかあるんだろうなぁ」で自分を納得させられる。

言葉と行動が合っていないから信用しないかと質問されたら、いいえと言う。言葉と裏腹に行動する人はいる。

愛をわからないように信用もよくわからない。問診票に信用している人がいるかと書いてあったら、筆をほんの少しだけ虚空にとどめて、”いない”を丸で囲む。だけどこれも「言葉」であり「行動」はその時がやってこないとわからない。

反対に信用されるかされないかは、自らどうこうできる系から離れたところにある観測できない惑星みたいなもの。私は信用されていると人肌で感じられるようになるのは、ずいぶん後になってからだと思う。ひょっとしたらその関係は終わっていて、お互いは次の場所へ移動していた、なんてあると想像する。移動したからわかったこともありそう。

人を信用しないのに、信用されていると感じられる。やり方を知らないのにできるという。どれだけ言葉を積み重ね、言葉できめこかく細工された気持ちは一瞬の沈黙によってくずれこわされる。

自分の思いたいように相手を心象して見えていた姿を消す。一切は自らが描く風景。